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2005年6月25日 (土)

日韓関係、歴史、教科書問題

 日韓における歴史観の共通認識はありえない。あると思うのは幻想である。日韓以外の第三者が介在すれば、日韓における歴史観の懸隔は狭めることができる。
 先の日韓首脳会談において、日韓の歴史専門家による共同研究の継続が決まった。そして、その歴史の教科書委員会も設けることになった。そこには、共通認識に基づく歴史的真実があり、それを子供たちに教えるとことが責務であるという誤った考えが日韓ともに存在している。
 日韓研究者の間で共通に認めることができる「過去の出来事」というものはある。しかし、それらの羅列では歴史にならない。歴史であるためには出来事の背後にある「WHY, HOW」の記述が必要となる。この「WHY, HOW」は研究者の履歴・価値観などによって異なる。つまり通常は、歴史観の日韓における共通認識はありえないのである。
 それでも、日韓の歴史観の懸隔を狭めようとするのであれば第三者を共同研究に加えることが有用であろう。ここでいう第三者は、日韓以外の国、例えば西欧やアフリカなどの国の研究者をさす。ただし、植民地帝国の末裔たる西欧の研究者とその被害者の末裔であるアフリカ諸国の研究者では異なる反応をするであろう。韓国の大企業であるサムスンや現代などが国際的に発展していることを考慮して、以下では西欧(アメリカの白人も含む)の研究者を第三者として加えることを想定する。
 共同研究において、日露戦争前後の朝鮮半島を取り巻く状況が研究されるものと仮定しよう。そこに住んでいて半島を実効的に支配していない朝鮮の人々、ロシアの南下、西欧列強の植民地と化していた清、その清と属国のような朝鮮の関係。そして、ロシアの南下を食い止めるために、多大の犠牲を払った日本など。ここで、西欧の研究者は日本と朝鮮に対してどのような評価・反応を示すであろうか。あえて述べる必要はないであろう。このような評価・反応は彼らの歴史観に反映される。この場で、韓国の研究者は「自国の過去のいたらなさ」を自覚するであろう。その自覚を通して日韓の研究者の歴史観の懸隔は狭まるであろう。ついでにいえば、韓国の企業の多くが国際的に発展することを通しても、それだけ西欧人のものの見方に多く接する機会が増えるのであるから、日韓両国民の歴史観の懸隔も狭まるであろう。
 上記で私が暗黙裡に前提としていることは、日本人の歴史観はどちらかというと植民地帝国の末裔的な発想をしており、韓国人は当然ながら被植民地の被害者的な発想をしているということである。私は、両者の歴史観懸隔の最大の理由をここに求めている。もちろん、私は両者の正邪・善悪などは判定していない。ただし、韓国人は日本との政治や経済の交渉において「歴史を武器」として用いていることを強調したいし、非難したい。この点については、過去にあった鉄鋼や半導体技術の日本から韓国への移転の背後を想起されたい。
 歴史的真実が存在するとしても、それを子供たちに教えることは別の問題である。この点については、前述の「武器としての歴史」とともに、私のブログ『歴史、教育、教科書問題』を参照されたい。
 かなり以前に読んだイギリス短編文学全集に『復讐』という自伝的短編がある(題名と内容にやや不正確な面がありうる)。著者A男が子供の頃、同年輩のB男によくいじめられていた。その時、A男は大きくなったら絶対にB男に復讐をしようと誓った。やがて成人し、ある程度の地位を得たA男の前にみすぼらしい1人の男が現れた。A男はこの男が誰だか分からなかったが、本人がB男と名乗った。結論として、著者は子供の頃に誓ったB男への復讐は「記憶の中から抹殺」することによって完全に成就できたという。
 このA男を韓国で、B男を日本とする。韓国が経済的にも技術的にもはるかに日本を追い抜いていれば、おそらく韓国人の被害者意識は今よりもはるかに小さくなっているであろう。場合によっては、忘れているであろう。しかし現実には、日本が経済的にも技術的にも韓国の前をちらちら歩いている状態である。われわれ日本人は、この韓国の人たちの気持ちを思いやる必要がある。
 過去において、われわれはアジアで「いじめっ子」であったことを忘れてはならない。そして、わが国が経済的にも技術的にもアジアの先頭を走っている限りは、「いじめられっ子」であったアジアの人たちの被害者意識や怨念などは決して消え去らないのである。

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2005年6月18日 (土)

安保理の常任理事国と日本外交

 国連安保理の常任理事国になることによって何が得られ、何を失うのか。政府・外務省は、この点を国民に十分に説明していない。
 5,6年前ごろまでは、「日本は一貫して『国連重視』を外交方針の柱の1つ」にしていた(『外交青書』による)。この方針がいかにトンマなものであるかは国連の仕組みを考えると容易に理解できよう。すなわち、国連で討議する重要案件はまずもって安保理で討議され、そこで可決されたもののみが総会に議題として提出されるからである。安保理に議席がないわが国が、あるいは議席があっても拒否権を持たないわが国が、この国連の仕組みを理解しながら、「国連重視」を表明していたのである。さすがに最近の『外交青書』はこのようには謳っていない。代わりに「国際協調重視」といっている。
 外務省は、前記のトンマな方針を正当化するためか、近年では国連改革・安保理改革が必要であると表明し、それとの関連で常任理事国入りを目指している。
 安保理の常任理事国拡大案については、現在の常任理事国は概してネガティブな反応を示している。それはそうであろう。なんらの補償もなく、既得権が希薄化するからである。アメリカは新規の常任理事国の拒否権保持には反対、中国は日本の常任理事国入りには反対などである。
 国連憲章には、「旧敵国条項」が存在している。そんな国連に、莫大な財政負担をする必要があるであろうか。そして、安保理の常任理事国になる必要があるであろうか。『外交青書 平成16年版』では、「日本は、厳しい経済・財政事情にもかかわらず、加盟国中第2位の分担率19.468%(2004年)の財政負担を行っている」とさえ記載している。既存の安保理常任理事国の中国とロシアの分担率はそれぞれ2.053%、1.1%にしか過ぎない。安保理の常任理事国になることよりも、国連憲章から「旧敵国条項」を削除していただくことが先決問題であろう。政府・外務省は、このような状況下で、なぜ国連分担金を素直に支払い続けているのであろうか。なぜ、政府・外務省は過大な分担金をアメリカのように滞納したり、財政事情から一部は「支払いできません」と国連当局にいえないのであろうか。外交とは、駆け引きである。この駆け引きに、分担金を有効な手段として活用すべきであろう。そうすれば、財政事情の厳しい国連当局の方から何かしらの譲歩が得られるはずである。ただし旧敵国条項の削除は国益にかなうが、安保理常任理事国になることが国益にかなうかどうかは不明である。ついでに、中国に対して「国連分担金をもっと大きく負担してください」とイヤミのひとつもいうべきであろう。
 現在の日本外交の柱は「日米同盟重視」と「国際協調重視」の二本立てである。つまり二本外交である。しかし、これは見かけ上であって、2つの柱の間には優先順序がある。「日米同盟」が先にあって、これと矛盾しない限りでの「国際協調」である。だから、一本半外交である。もっと正確にいうならば米国追随主義である。残念ながらわが国は米国の走狗に過ぎない。
 わが国が安保理常任理事国になったら、国連分担金はさらに増えるのであろうか。常任理事国になったら、わが国の外交方針においては、上記の「国際協調」に替えて「国連重視」が復活するであろう。そうであっても、「日米同盟重視」が優先する限り、現在の外交に大きな変化は起きないであろう。国連常任理事国になることによって、何が得られ、日本外交にどのような変化がおきるのであろうか。たとえば「国連重視」が先で、「日米同盟」はその次になるのであろうか。この点を政府・外務省は国民に十分に説明しなければならない。さらに、旧敵国条項が存在している憲章下にある国連の安保理に、旧敵国当事者が常任理事国になるという異常を国民に説明すべきである。

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2005年6月 9日 (木)

アレフ、カバラ、オウム真理教

 オウム真理教の名称変更のウラをよむ。

 オウム真理教は「アーレフ」と改称した。彼らは、「アーレフ」はヘブライ語のアルファベットの最初の言葉であると説明している。それならば、なぜアーレフを選択したのであろうか。英語のエーやギリシャ語のアルファでもよいのではないか。

 少し数学を学んだものには、「アレフ」は無限集合を表す記号であるということが分かる。集合論を完成させたカントールは、無限集合を表す記号としてアレフを用いた。彼はユダヤ系キリスト教徒であるが、ユダヤ教やその周辺の知識も豊富であったと想像できる。

 カントールが無限集合にアレフを用いた背後には、カバラ(ユダヤ神秘主義と瞑想体系をさす)が存在していたものと思われる。カバラの教義のひとつに「アレフは神と無限を象徴する」がある。これらの詳細はA.D.アクゼル(青木訳)『[無限」に魅入られた天才数学者』(原題は『アレフのミステリー』)早川書房2002年が参考となる。なおユダヤ知識人の多くはカバラに親近感を持ち、その教義などにも通じているようである。例えばエリ・ヴィーゼルの自叙伝(『そしてすべての川は海へ』、『しかし海は満ちることなく』朝日新聞社)では、カバラのことがところどころ記載されている。

 オウム真理教は古代仏教とヨガを中心とする教団であるといわれている。上記のカバラやアレフを考えると、この教団は「古代仏教神秘主義とヨガを通じた瞑想体系」を重視しようとしているのではないだろうか。これが小生の推察である。カバラに通じている識者の判断はどうであろうか。

 それにしてもカントールは悩まなかったのであろうか。カバラでは「アレフは1であるとともに無限である」。無限と1は相性が悪く、無限とゼロなら相性がよいはずである。例えば空集合(ゼロからなる集合)は、すべての集合に含まれているから、遍在している。つまり空集合は無限に存在しうるのである。

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2005年6月 1日 (水)

歴史、教育、教科書問題

 歴史的真実を教えることが教育の責務か。ちがうネ。

 日中韓3カ国の歴史学者などが共同で近現代史の中学生用歴史教科書を作成したという。そこには、旧日本軍による中国内での虐殺者数などが記述されており、近く日本でも刊行されるという(以上、朝日新聞5月27日朝刊)。これらの背後には、歴史的真実(ここでは、そんなものが1つしかないものと仮定する)を教えることが教育の責務であるという考えがある。これは正しいであろうか。

 前回紹介したA.シュレージンガーJr.の著書によると、黒人(アフリカ系アメリカ人という表現もある)の子供たちの歴史教科書は歪曲しているという。そこには、古代エジプト文明は黒人文明であり、ピタゴラスの数学やアリストテレスの哲学は黒人学者から盗んだものであると記述されているという。彼の指摘する黒人学者の歴史教科書は、現在世界的に容認されている歴史的真実からは程遠いものである。

 では、なぜ黒人学者はそのような歴史教科書を作成したのであろうか。想像してみてください。われわれが習ってきた「世界史における黒人」はマイナスのイメージばかりで、プラスのイメージはほとんどありません。たとえば、リビングストンの暗黒大陸探検、奴隷貿易、アメリカ大陸での奴隷の生活、戦後のアフリカにおける内戦と飢餓などなど。

 現在のアメリカで、社会的にも経済的にも低い階級に属している黒人の子供たちに「われわれの歴史教科書」を使用する結果も想像してみてください。(この場合、国内の一部の人たちのいう「自虐史観」という言葉が適切なものとなります。) その時、子供たちは「どうせ俺たちはダメな人間」なのだと自分の将来に悲観するでしょう。分かりますか。教育の責務は歴史的真実を教えることではないのです。

 教育の最大の責務は、子供たちの将来の夢(大人になったら○○になりたい、○○をやりたい、○○のような人になりたいなど)を育むことです。その他に、パラダイム(社会的な規範や凡例などのようなもの)を教えることもあります。

 子供たちが、将来にマイナスのイメージしか持ち得ないことは教えなくともよいのです。教科書問題で欠落している最大の視点は「選択」です。もし、プラスのイメージを持つ歴史的真実が教科書に多く記載されているのであれは、マイナスのイメージを持つ歴史的真実も全部、あるいは一部が記載されることもあるでしょう。

 ここまできて、在日(朝鮮半島出身者の子孫やその他の人たち)の子供たちのことに気づきました。この子供たちは、日本の学校で、歴史教科書にどのような思いを抱いているのでしょうか。ついでにいうと、この子供たちはNHKの大河ドラマをどのような思いで見ているのでしょうか。『義経』に親近感を持っているのでしょうか。

 子供たちの将来の夢を育み、「在日の子供たちにも優しいまなざし」の歴史教科書が必要だと思いますが・・・・

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