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2005年7月 2日 (土)

幸福大国、不幸少国、持続可能性

 地球資源の有限性、あるいは持続可能性sustainabilityを考慮すると、われわれは、幸福大国ではなく、不幸少国を目指すべき時代に突入したのではないであろうか。
 最近、朝日新聞では「幸せ大国をめざして」という連載記事を掲載している。もう10年以上前になるが、1992年の宮沢内閣の経済審議会でも「生活大国5カ年計画・・・」というものを発表している。地球資源の有限性などとの関係も含めてこの点を考えてみたい。
 K. ポパーは『開かれた社会とその敵(原著の初出は1945年)』の中で政治の目標は「人々の幸福を実現することではなくて、避けられる不幸を除去していくことである」と述べている。最大多数の最大幸福の追求ではないという。彼は、幸福というものは人によって異なりうるという。「何が幸福か」ということに対して人々の意見の一致がみられにくいという。これに対して、「何が不幸か」ということについては、人々の意見の相違は少ないという。民主主義社会を前提とすれば、政策としてどちらを選択すべきかは明瞭であろう。彼は、幸福大国、あるいは生活大国の追及は全体主義国家や独裁国家への道につながるという。
 ポパーがこのように主張していた時代は、地球資源の有限性、あるいは持続可能性sustainabilityが知識人の間でも差し迫った課題ではなかった。いまや、地球資源の有限性が現実の課題となっている。地球の温暖化問題、原油、鉄鉱石、石炭などの国際取引価格の暴騰などはこの有限性と深く結びついているのである。
 地球資源の有限性を考慮すると、私たちはポパーの上記の主張を一層重く受け止めなければならないと思う。人々の幸福の追求は、多くの場合、地球資源の乱用・浪費に結びつく。これに反して、人々の不幸の削減はそう多くの地球資源を必要としないであろう。この点は、幸福の追求が国民のほとんどを対象としているのに対して、不幸の削減が国民の少数を対象としていることからも理解できよう(さらにいえば、幸福の追求には限界がない)。私は、日本も含めた先進国では、率先して「国民の幸福追求ではなく、不幸少国を目指す」べき時代に突入したと思う。もちろん、発展途上国や未発展国では、国民の幸福追求が今でも必要である。
 ポパーは、さまざまな不幸をその絶対値の大きいものから順に小さくしていくことを提案している。以下では、経済学の社会的厚生関数のように、これらの不幸が社会的に集計できて1つの集計値(以下では単に不幸と呼ぶ)として表わされると仮定する。そうすると、不幸少国を目指すことは「ミニマックス原理」追及と表現できる。
 ミニマックスは数学用語で、正しく表現すると次のようになる。
    mini-max[不幸]
minとmaxは演算子で、[不幸]が目的関数である。演算子は目的関数に近いところから作用する。上記式は、「国民の不幸の中から最も大きいものを探し出し、それを最小にする」という意味である。
 この「ミニマックス原理」は、ポパーの主張を私なりに表現したものであるが、経済学者・法哲学者のF. A. ハイエクの主張にも重なり合う部分が多いようである。ハイエクの主張の一部は上記のポパーの著書にもみられる。ポパーの主張には弱者の観点があり、ハイエクの主張には強者の観点があると思う。これらについては別の機会に述べることもあるであろう。
 さらに、正義論のJ. ロールズのいう「マキシミン・ルール」は「ミニマックス原理」と同じである。数学的に示すと、「マキシミン・ルール」は下記のようになる。彼の目的関数は「幸福」ではないが、上記式との対応のために「幸福」としている。
    maxi-min[幸福]
上記式は「最小の幸福-つまり最悪の結果-を探し出し、その最大-つまり最もましな最悪の結果-となるものをとれ」という意味である。数学的にいうと、目的関数にマイナスの符号をつければ(マイナス幸福→不幸)、演算子が逆転する(min→max、max→min)のである。ロールズの正義論では、この幸福の代わりに「社会的・経済的不平等」が目的関数となるはずである。それゆえに、「ミニマックス・ルール」というべきである。ただし、彼の「社会的・経済的不平等」が社会的に集計された単一の指標なのかどうかは不明である。
 私は、ロールズの正義論を一言で表現すると「マキシミン・ルール」になると理解していた。しかし、これは誤りであった。これらの点は後述する。
 2003年衆議院選挙時の民主党のマニフェストでも、「菅直人(当時の代表)から国民のみなさんへ」というメーセージの中で次のように述べられている。
    私は、政治の目標は「最小不幸社会」の実現と考えています。・・・なぜ「最大幸
   福」と言わないで「最小不幸」と言うかといえば・・・。
後者の理由は、上記のポパーの著書の中の主張とほとんど同じである。

追記1:ロールズの正義論
 J. ロールズの正義論は一言でいうと、「マキシミン・ルール」であると私は理解していた。
 ロールズの正義論は2つよりなる。そのうちの2番目の「格差原理」は下記のようになる(田中他訳『公正としての正義 再説』岩波書店、2004年)。
    社会的・経済的不平等が、社会のなかで最も不利な状況にある構成員にとって最
   大の利益になるということ。
 前著(『正義論』1971年)からは幾分修正されているが、この格差原理は、私にとって、彼の正義論の中で最も魅力的なところであった。そして、この原理こそ正義論の核心であると思っていた。これは、他の人にも同様であったようである。例えば上記書の脚注の中でロールズは「多くの論者は格差原理という代わりに、・・・マキシミン正義・・・のほうを好んで用いている」と記述している。また岩田靖夫氏は、前著の公刊後にロールズのセミナーに参加し質疑応答もした後の著書の中で、「最悪の弱者をもっともましな状態にもたらすことという一種の新しい正義」と記載している(『倫理の復権』岩波書店、1994年)。
 ロールズの新しい正義論は複雑すぎて、内容が良く分からない。ユークリッド幾何学のような公理的方法を用いていながら、その公理は多くの付帯条項を含み、明確でない。ここでは、ロールズが正義論においてマキシミン・ルールを用いているということと、このルールは前記の格差原理と形式的類似性を持つに過ぎないとロールズが言明していることのみ付記しておく。

追記2:民主党のマニフェスト
 2004年参議院選挙時のマニフェストでは、「最小不幸社会」という記述はみられない(少なくとも見出しにはない)。これはどうしたことであろうか。党の代表が変われば(菅氏→岡田氏)、マニフェストも変わるということであろうか。あまりにもマニフェストの内容が軽いのではないか。そんないい加減な心構えでマニフェストを作成したのであろうか。
 ついでにいうと私は、「最小不幸社会」という理念は民主党の誰がいいだしたのであろうかと興味を持っていた。その理由は、ポパーの著書はごく一部の人にしか知られていない上に、幾分読みにくいからです。もっとはっきりいえば、民主党員の知識レベルに不安を感じていたからです。ところが、1年ほど前のテレビのニュース番組の対談の中で小沢一郎氏は「開かれた社会」という言葉を連発していた。彼のいう「開かれた社会」はポパー上記書の中でのそれである。それで今では、私は「最小不幸社会」の民主党内でのイイダシッペは小沢一郎氏と推測している。もしそうであれば、上記マニフェストの内容変更からみて、小沢氏の党内での力はそれだけ落ちていると推測できる。(推測が間違っていたら、関係者にお詫びします。)

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