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2005年10月20日 (木)

外交カードとしての靖国問題、国連分担金

 小泉総理がまた靖国神社を参拝した。このことが日中関係、日韓関係に暗い影を落としたといわれている。本当にそうだろうか。(困った総理大臣問題はヨコにおく。)
 本来、靖国問題は国内問題であって、外国が口を出すのはおかしいと思う。しかし外交カード(外交交渉における何らかの優越手段など)として、中国や韓国などがこれを利用するということは当たり前のことである。中国や韓国などは、日本との交渉において、この靖国問題をチラツカセルことで何らかのプラスが得られるであろう。
 わが国の外交当局ももう少し中国や韓国のやり方、あるいは国際的なやり方を学ぶべきである。まあ、イヤラシイやり方ではあるが。
 対中国の外交カードしては、中国内における人権問題や模造品(ニセブランドや日本製品の模倣品など)などがある。外交当局は、機会あるごとに、「中国では人権がないがしろにされている」、「中国製の模造品でわが国産業界には多大の損失額が発生している」などと発言することが重要である。特に後者の発言は重要である。
 ついでながら、中国政府はなぜアヘン戦争のイギリスを攻撃しないのであろうか。まさか、イギリスとの戦争で負けっぱなしで終わったからではないであろう(対英国戦争勝利○○年祝賀行事ができない)。この点も、ヤンワリと中国に指摘すべきであろう。
 対韓国の外交カードしては、先の6者協議の場外で、「韓国人の拉致問題は日本人のそれよりもはるかに重要な問題であるのに、韓国政府はこれを無視している」と発言するなどがある。また歴史問題においても、日露戦争当時の朝鮮半島の状況を持ち出せばよい。当時の朝鮮半島を誰が実効支配していたのかを韓国当局に尋ねてみよう。
 われわれ日本人からすると、上記のような外交カードを使うことは公正ではないように感じられる。しかし、外交は交渉であるから、使える手段などは何でも良いから使わなければならない。外交には、普段から、アドバンテッジを持っていることが重要である。
 18日の日経新聞には、米国が日中歴史問題に関与する方向であると述べられている。すなわち米国政府が日中間で対立する歴史問題解決のために「日米中の民間有識者による対話を進める構想」を中国政府に提案しているという。これは、日本にとってプラスとなるので、是非とも実現した方が良いであろう。
 当ブログで日韓の歴史教科書問題を取り上げた際(6月25日)に、共同研究に第三者を加えることを提案した。そして、日本に有利な第三者として植民地帝国の末裔たる西欧(米国も含む)の研究者をあげた。
 日中の歴史問題ばかりでなく、わが国は日韓の歴史問題にも米国政府に関与をお願いすべきであろう。そうすれば、日中間や日韓間で歴史問題が外交カード(相手国のアドバンテッジ)として持ち出される機会は薄れるであろう。もちろん靖国問題も、外交カードしての役割が薄れるので、相手国が持ち出さなくなるであろう。

追記 国連分担金について
 17日の国連総会第5委員会で、日本の3席大使は国連分担金にふれて「安保理の常任理事国の米国を除く4カ国合計額よりも多くの金額を日本が負担することは不公平だ」と演説した。さらに分担金には「加盟国の地位と責任が考慮されるべきだ」と訴えた。9月の国連総会でも、外相が分担金の包括的な見直しを要求している。
 以前の当ブログ(6月18日)でも、この問題を指摘した。そして、米国のように分担金支払いを滞納したり、国内財政事情から「一部は支払いできません」と国連当局にいうべきであると指摘もした。対国連に対して、この分担金はわが国の重要な交渉カードである。
 さらに中国に対して「国連分担金をもっと大きく負担してください」とイヤミのひとつもいうべきであるとも指摘した。中国の分担金は日本の約10分のⅠ、人口1人当たりでは約100分の1である。この分担金も、対中国の外交カードして有効に用いるべきであろう。
 大事なことは、繰り返し発言することである。どんな機会でも、政府のさまざまな担当者・レベルの人たちが繰り返し発言するのである。そうすることにより、それだけ外交カードとしての利用価値が向上するであろう。

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2005年10月12日 (水)

持続可能で公正な世界とわれわれの将来の生活

 これから将来に向けて持続可能な世界(むしろ持続可能な地球といい変えた方がよい)とはどのようなものであろうか。そこでのわれわれの生活はどのようになるであろうか。ブリックスBRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)と呼ばれる4大国の台頭を目にする今、このテーマはより緊迫したものとなっている。例えば、これら4国以外の国々の経済状態が現状のままとして、これらの4国の1人当たりの経済水準がわが国の現状に近づいたと仮定してみよう。この仮定の下では、地球は持続可能なものとはならないであろう。再生不可能な資源(石油、石炭、鉄鉱石など)の枯渇はもとより、再生可能な資源(木材、魚など)でも枯渇へと急速に向かうであろう。これに加えて、排出される汚水、煙・ガス、固形廃棄物などの処理も限界に近づくであろう。
 最近、メドウズ他著(枝広訳)『成長の限界、人類の選択』ダイヤモンド社2005年を読んで、上記の懸念が一層現実味を持ってきた。この書は原題がLimits to Growth: The 30-Year Updateであり、この書名から分かるように『成長の限界』のアップディト版である。
 この書のキーワードの1つの「エコロジカル・フットプリント」は興味深い概念である。これは「さまざまな国民に、彼らが消費する自然資源を提供し、かつ彼らの汚染排出を吸収するために必要な地球の表面積」のことである。つまり再生不可能な資源を取り出すために利用する地表面積、再生可能資源を生産・獲得するための地表面積、さまざまな排出物を処理するための地表面積(これには、地球の生態系に処理をゆだねる面積も含まれる)などの合計である。必要な地表面積で計算するところがミソである。しかし魚などの場合は海水の容積で、あるいは大気の場合は体積で考えなければならないが、その処理方法は不明である。
 人々の間の公正という観点に立つと、BRICsの人たち、あるいはその他の発展途上国の人たちの今後の経済成長を阻止するわけにはいかない。そうなると、早晩、上記のエコロジカル・フットプリントは限界以上になる。(世界自然基金WWFの推計によると、1980年代後半以降に、この値は地球が提供できる能力(地球の表面積)を越えているという。つまり、世界・地球の持続可能性は崩壊の過程を既に歩みだしていることになる。)
 「いかにして持続可能で、公正な世界を実現するか」という問題に対する解決策は1つしかないと思う。それは、世界・地球の持続可能性を前提条件として、日本やアメリカなどの先進国の国民の物的生活水準を低下させることである。多分、今後徐々にこの水準を引き下げていかなければならない。ここで大事なことは、物的生活水準の低下であって、非物質的なそれではないということである。
 今後も、われわれの非物質的な、あるいは精神的な(古い言葉でいえば「形而上」、英語ならmetaphysical)生活水準を維持・向上させることは可能である。そうはいっても、モノやエネルギーを消費せずに、心の豊かさを求めることには限界がある。たとえば、読書のためには書籍を購入するであろうし、カルチャーセンターに出席するためには交通手段を利用するであろう。もちろん、図書館を利用し、徒歩で出席することもありうる。非物質的な活動に要したモノやエネルギーは他の生活局面で節約しなければならない。
 今後のわれわれの生活で理想となるものは、「現在の平均よりもかなり低い物的生活水準で、かつモノやエネルギーをあまり使わない精神生活に満足感や幸福感を見出すこと」であろう。この代表的な例としては、「毎日一汁一菜で、アキ時間に念仏を唱えて幸せな気分に浸る」というような生活である。もちろん、小声での念仏となる(大声を出すとそれだけ腹がへる)。
 どうです。みなさんはこの輝かしい将来に耐えられますか。今から、その心構えが必要です。
 私は、「毎日一汁一菜で、アキ時間に数学を考える」という生活を送ろうかなと思います。数学ならば、ほどほどの知力と紙と鉛筆で十分です。数学の代わりに、任天堂DSの数学ドリルに挑戦ということも考えられます(私はイヤですが)。
 
追記 アナーキストと呼ばれたP. クロポトキンの自叙伝を読んでみると、彼の出発点は今でいうエコロジストであったといえる。現在のエコロジー的な考え方を学んで気が付いたことのひとつにアナーキズムの復活があります。上記の持続可能性と公正の他に、アナーキズムの3つがこれからのキーワードになるかもしれません。
 なおアナーキズムや国家のあり方(大きな政府か小さな政府かなど)については、R. ノージック(島津訳)『アナーキー・国家・ユートピア』木鐸社1992年も参考にしてください。

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2005年10月 1日 (土)

ザイン、ゾレン、ヴェルデン(存在、当為、生成)

 私たちは、政治学、社会学、経済学などの世界で、長年「われわれはどうあるのか(ザインSein)」、「われわれはどうあるべきか(ゾレンSollen)」という問題設定になじんできた。これは、2軸での問題設定である。ここで、私は新たに「われわれはこれまでどうしてきたのか、そしてこれからどう進もうとしているのか(ヴェルデンWerden)」という問題設定を追加することを提案したい。つまり、3軸での問題設定である。このことによって、私たちの思考領域は大幅に拡大し、新たな知識も生まれるはずである。
 上記のような文脈の中でヴエルデンという言葉が初めて用いられたのは、私の知る限り、グスタフ・シュモラーの『国民経済、国民経済学および方法(1911年)』(田村信一訳、日本評論社、2002年)である。この第19章で、シュモラーは次のように述べている。「・・・マーシャルとともに、われわれは「存在」から「生成Werden」を学ぶべきである、と言わなければならない。つまり、研究者が過去と現在の生成を把握することが多くなるにつれて、将来と当為についてなにか言明することがますます可能になる。」
 上記のような3言語を、社会科学の世界で現在重視しているのは山脇直司『包括的社会哲学』(東京大学出版会、1993年)である。ここの第3章からも引用しておく。「・・・制度論における問いとして、1「何がどう存在するのか」、2「何がどう起こりうるのか」、3「何がどう存在すべきか」という3つの次元が考えられるとすれば・・・。」なお、前記書を読めば、山脇は上記のシュモラーにも熟知していると考えられる。
 ここで、ドイツ語のヴェルデンWerdenの意味を辞書から抜書きしておく。
    成る、起こる、生ずる、創造される、生長する、発達する、など
 このドイツ語の意味を見て、気の付いた人もいると思います。そうです。複雑系理論やカオス理論のキーワードの「創発」です。現在では、この創発の英語はemerge(動詞)、emergence(名詞)、emergent(形容詞)が使われているケースが多いようです。複雑系理論の創始者の1人であるI. プリゴシンは、この言葉としてbecome(動詞)、becoming(名詞)を用いております。参考のため、次のように対で用いられているケースとその訳を示しておきます。書名などは省略。(物理学の世界ですから、Sollenは使っておりません。)
    Being and Becoming   ・・・ 存在と生成
        From Being to Becoming  ・・・ 存在から発展へ
 私たちは、ザイン、ゾレン、ヴェルデン (存在、当為、生成)の3軸でモノを考える習慣をつけることが必要だと思います。長年慣れ親しんだザインとゾレンにヴェルデンを追加するのです。そうすれば、自然と思考の中に、新しいものの見方の複雑系理論などの成果も取り込めるのではないでしようか。

追記:確か、K. ポパーは『科学的発展の論理』の中でemergeと言う言葉を使っていたと思います。しかしそこでは、この言葉はキーワードではなかったと思います。

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