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2006年2月25日 (土)

頭脳とコンピュータ・ソフト

 頭脳の続きです。将棋と囲碁を比べると、コンピュータは囲碁が格段に苦手のようである。この点について、前回ブログの直観型頭脳、論理型頭脳などとの関連も含めて、考えてみたい。
 私は、幸いにしてか不幸にしてか、将棋も囲碁も1級程度の実力である。ちなみに、この実力は町の将棋・囲碁センターで恥をかかないで打てる程度のものである。アマチュアで強豪と呼ばれるためには、あと2つか3つ上でなければならない。この実力で、それぞれのコンピュータ・ソフトと対戦した私の結果は次のようになる。
 将棋ソフトはかなり強い。当初はソフトの中程度のレベル設定でも私が負けていた。今では、私の方の学習効果が向上し最上級レベル設定でも私が勝てる。ただし、必勝のために守るべき事がある。1つ目は、大駒(飛車や角)を当初に交換しないことである。初めの方にこれを交換すると、私は勝つことがほとんどできない。2つ目は、序盤に優勢になったらそれを守りながらゆっくり相手を攻めることである。それでも、時々私は負ける。ソフトは桂馬の使い方などが私よりも格段に上手である。
 囲碁ソフトはとんでもなく弱い。販売されている最強ソフトと自称しているもので、その最強レベル設定でも、私の相手にならない。今では、その最強ソフトの最強レベル設定で、しかもソフトに20石も置かせても私が楽勝できる。現在の実力でも、私はプロ最強棋士に20石も置かなくても勝てる。
 私のレベルからみると、将棋ソフトは学ぶべきことが多い。それに対して、囲碁ソフトは学ぶべきことはほとんどない。囲碁ソフトには、アホな手が多すぎるという実感を持っている。ただし、囲碁ソフトは終盤になり石が盤面に一杯になると、それなりに良い手を打つようになる。終盤は、時々私よりもうまい。しかし、その段階では勝負は既に決しているのである。
 囲碁ソフトは序盤の石がパラパラしている時に良い手をみつけられないが、終盤の石が多い時に良い手をみつけられるという特徴を持っている。このことがコンピュータの弱点を示唆しているようである。つまり、コンピュータは局面が広い状態では人間の頭脳のような働きができないが、局面が狭い時には人間の頭脳並み、あるいはそれ以上の働きができるようである。
 上記のことを、直観型と論理型に分けて考えるとよりよく説明できる。ここでは、直観型は幾何学的な発想・処理などをさし、論理型は解析学的な発想・処理などをさす(前回のブログも参照)。
 囲碁における序盤は、何手か先の石の姿・配置を想定できるかどうかが重要である。私のように論理型頭脳では、これが苦手である。私は、何手か先の図形、つまり石の姿・配置が頭に浮かばない。直観型頭脳であれば、何手か先、あるいはもっと先の石の姿・配置が頭に浮かぶであろう。囲碁の高段者になると、100手以上先の石の姿・配置が瞬時に頭に浮かぶようである。囲碁のソフトの序盤が極端に弱いということは、コンピュータが幾何学的な発想・処理などに不得手であるということを表しているものと思う。
 囲碁の終盤は、論理で説明できる手が多い。囲碁ソフトの終盤が強いということは、コンピュータが論理的な処理に強いことの表われであろう。
 囲碁は、序盤から中盤にかけて直観型発想を要求され、中盤から終盤にかけて論理型発想を要求される競技のようである。それでは、直観型頭脳と論理型頭脳のどちらが強いであろうか。私は、直観型の方が強いと思う。その理由は、囲碁の勝負は「序盤から中盤にかけての布石」が「中盤から終盤にかけての布石」よりも大事だと思うからである。
 将棋は、序盤から終盤まで、一貫して論理型のようである。駒組みも論理で説明できそうである。囲碁と違って、将棋のプロの高段者が瞬時に読める手数は10手先程度までのようである。もし将棋が直観型発想で行われるのであれば、プロの高段者はもっと先の手数が読めるはずである。将棋では、直観型発想は読みの裏づけがあってはじめて役立つ。読みの裏づけは論理の役割である。
 一般に、女性は直観型で論理が苦手であるといわれている。近頃辞任に追い込まれたハーバート大学学長は『女性は生まれつき科学や数学に向かない』と発言している。(この発言は、女性は論理型頭脳でないといっているものと思う。科学や数学の世界でも、直観型頭脳の人が活躍していることについては前回のブログを参照してください。) この点は、将棋と囲碁の女流プロを考えると納得できるところもある。将棋の女流プロは「女流○○段」であって、男性とは対等の段位ではない。一方、囲碁の女流プロは単に「○○段」であって男性とは対等の段位であるし、プロになるための試験も男性との区別はない。つまり将棋と囲碁を比べた場合、女性では囲碁の方がはるかに強い。
 将棋と囲碁のソフトの比較から、コンピュータは直観型処理が苦手で、論理型処理が得意であるということが分かる。数学ソフトからも、この点は確認できる。例えばマスマティカMathematicaでは、グラフなどは上手に描けても、幾何学の問題を解くことは下手のようである。もちろんマスマティカも論理型処理は上手である。

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2006年2月18日 (土)

直観型頭脳と論理型頭脳

 前回の頭脳の続きです。主として数学や私の経験を踏まえて、直観型頭脳と論理型頭脳について述べたみたい。
 私は、小学校2年後期から中学校3年まで、算数・数学の予習をしていた。小学生の頃のことはほとんど記憶にないので、中学生の頃のことを述べておく。だいたい予習は、今後の授業の2週間分を目処に学習していた。この予習では、教科書を1回読むだけでほとんどすべてを理解でき、練習問題もほとんどすべて解けた。どこの部分でも、教科書を2回以上読んだことはほとんどない。教科書中のすべての問題を対象として、予習で解けなかった問題は2つから3つ程度であった。このような状況下で、私は「数学は本を読めばすべてが理解でき、練習問題もすべて解ける」という自信を持つようになった。
 ところが、高校の数学である経験をした。当時の数学は、数学Ⅰ、数学Ⅱ、幾何学の3つに分けられていた。このうち、数学Ⅰと数学Ⅱはやはり教科書を読むだけでなんなくすべてを理解できた。練習問題も簡単に解けた。この面では、中学校の延長であった。
 しかし、幾何学はそうはいかなかった。幾何学は、教科書の内容はなんなく理解できるのであるが、練習問題では容易に解けなかったものが多かった。このため、幾何学の教科書は何回も読んだ。それでも、解けない問題がかなり多かった。解が記載されている問題では、解をみれば「なーんだ」程度ですぐに理解できた。簡単に言えば、「ここに1本の補助線を引く」という記載を読んだ瞬間にその解は分かった。ただし、どこに補助線を引くかは、練習問題をみた段階では私には見当が付かなかった。
 上記のような経験から、高校生の頃の私は「幾何学は数学ではないのではないか」という疑問を持つようになった。私の中では、幾何学は明らかに数学Ⅰや数学Ⅱとは大きく異なる分野であった。こんな疑問は、成人した後に読んだポアンカレ著・吉田訳『科学の価値』岩波書店1977年で氷解した。
 ボアンカレによると、数学者は2つの相反するグループに分けられるという。一方は論理型で解析学者と呼ばれ、他方は直観型で幾何学者と呼ばれることが多いという。そして、論理型や直観型は生得の資質であり、後天的に獲得する資質ではないという。『人は幾何学者として生まれ、あるいは解析学者として生まれつくのである。』さらに、一般関数論を築き上げた2人の数学者を次のように対比している。
  ◎ ヴァイエルシュトラース(論理型)はすべてを級数の考察とその解析的変換とに帰
   着させてしまう。彼の書いたどの本にも、図形が一切見当たらない。
  ◎ リーマン(直観型)はすぐさま幾何学に頼ろうとする。彼の着想はどれをとっても映
   像・・・なのである。
 このポアンカレの図書を読んで、私は論理型であったと分かった。そして、直観型の映像的着想ができなかったがゆえに幾何学に苦労したことも分かった。現在の私は理論経済学の研究をしているが、頭脳内に浮かぶのは常に記号である。記号の演算は、無意識でも、あるいは夢の中でも行っていることがある。研究時に、図形や映像が頭の中に浮かぶことはない。ただし、子供の頃にそろばんを習い暗算には習熟しているので、数値の計算時にはそろばん球が頭に浮かぶ。(以下は余談。直観型の子供と論理型の子供とでは、どちらがそろばん上手であろうか。)
 直観型の頭脳内の働きをもう少し述べておく。高名な数学者J. アダマール(直観型)はある数学の証明における自身の心象を具体的に述べている。例えば証明のある段階で「2から11までのすべての素数を考える」時に、彼自身の頭の中では『私にはあいまいな塊が見える』と述べている。さらに、彼は『私が実際に思考しているときには、頭の中には言語はまったく存在しないと私は主張できる』と述べている。彼の場合、言語と代数の記号は同様の働きをしている。(以上、J. アダマール著・伏見他訳『数学における発明の心理』みすず書房1990年による。)
 高名な物理学者でノーベル賞受賞者でもあるR. P.ファインマンは、どこかで、『物理学の論文を読んでいると、機械や装置のようなものが頭の中に浮かんでくる』というようなことを述べていた。彼の場合は、数式などが機械や装置の一部になるようである(物理学を学んだことがある私は、このようなことは経験したことがない)。彼は直観型といえよう。
 私のように論理型の人は「文字や記号を図形・映像などに転換する頭脳内操作」が不得手なのではないであろうか。それでも、私は若干ではあるが図形・映像に転換することができる。具体例をあげておく。
 私は詩歌が好きである。例えば島崎藤村の「千曲川旅情の歌」の場合。
    小諸なる古城のほとり、雲白く遊子悲しむ、緑なす・・・
私には、この詩の全体の光景は頭には浮かばない。浮かぶのは部分部分の光景であり、それらが断片的に存在しているだけであり、連結・連接していない。もちろん、音も聞こえてこない。
 最近になって「自分でビデオカメラを操作している場合を想像する」ように意識することによって全体を映像的に捉えられるようになった。まだ短歌や俳句などの短い表現に限られるが。例えば佐々木信綱の
    ゆく秋の大和の国の薬師寺の、塔の上なる一ひらの雲
の場合。現在の私は、次のような段階的な映像を頭の中に描くことができるようになった。
    日本列島のゆく秋⇒大和の国のゆく秋⇒薬師寺のゆく秋・・・
しかし、これらの映像が走馬灯のように一続きのものにはならない。
 俳句では、意識することによって一つの映像として頭の中に描くことはできる。芭蕉の
    象潟や雨に西施がねぶの花
の場合がそうである。まだ意識しないと映像化はできない。映像化ができるようになって、この句の意味がより深く理解できるようになった。
 私は論理型であるがゆえに、直観型の人の頭の中がどのように働くのかに大いに興味を持っている。そこには、私の知らない世界があるのではないだろうか。また私のように意識することによって、論理型の人も直観型に近づけるのではないだろうか。

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2006年2月11日 (土)

そろばんと頭脳

 そろばんを操作することによって得られる頭脳の働きについて述べてみたい。以下、そろばんをはじく時の頭脳の働きを「そろばん脳」と呼ぶ。
 私は小学3年生から6年生までそろばんを学習し、かなりの上級まで達した。その経験から、上記のことを述べる。不思議なことに、そろばん脳はこれまでほとんど論じられてこなかった。しかし、そろばんと頭脳の一般的な関係はかなり多く論じられている。(例えば「播州そろばん」ウエブサイトでは、次のように述べられている。「そろばん演算時の指先の反復運動は左脳を鍛え、暗算は右脳を鍛える。」)
 中級程度までは、そろばんは計算道具に留まっている。しかし、かなりの上級者になると、一転してそろばんは外部記憶装置に転換する(すべての上級者が以下のようになるかは不明である)。簡単な例で、このことを述べておく。
 読み上げ算、つまり誰かが足し算の数値を順次読み上げ、それを「そろばん手(以下、そろばんをはじく者をさす)」がそろばんで計算する例を取り上げる。誰かが『123円なり、356円なり』と読み上げたとしよう。
 そろばんが計算道具に留まっている人の場合は、そろばんの上で、123円の上に356円を加えていく。その結果、479円と分かる。次に『689円なり』と聞いた場合も、そろばんの上の479円に689円を加えることになる。
 一方上級者は、まず123円とそろばんの上に置く。そして、356円という声を聞くとほとんど同時に、そろばん上の123円と356円を頭の中で計算して479円という結果を得、それをそろばんの上に置く。つまり、計算は常に暗算で行い、その結果をそろばん上に置くことになる。次に『689円なり』と聞いた場合も、そろばん上の479円と689円を暗算で計算し、その結果である1168円をそろばんの上に置く。
 このように上級者の読み上げ算は、常にそろばん上の数値と新たに聞いた数値を暗算で計算し、その結果をそろばん上に置くという操作を繰り返すのである。このためもあり、暗算で計算するということがそろばん脳の1番目の特徴となる。そして、そろばんという外部記憶装置と頭脳との連動がそろばん脳の2番目の特徴となる。後者の連動は、コンピュータ(CPUと記憶装置)の中でも行われている。
 加算や加減算では、そろばん手は上の桁から計算する。この計算方法は、筆算やコンピュータのそれとは異なっている。なお見取り暗算(足し算する数値が紙などに上から順に書かれている場合の暗算)では、部分計算(例えば3桁ごとに計算する)する場合があるが、その時は下の部分の暗算から行う。もちろん部分計算も上の桁から行う。
 もっと難しい読み上げ算の場合も、上級のそろばん手の演算方法は上記と同じである。しかし上記に加えて、そろばん手は頭脳を2つの部分に分けて使うようになる。つまり頭脳の用い方が変わってくるのである。(中級以下のそろばん手がこのような頭脳の用い方をするかどうかは不明である。)
 これも読み上げ算の例をあげて説明する。読み手が『123億5468万3468円なり、78万4888円なり、2568億3489万4566円なり、・・・』と読み上げたとする。まず、最初の123億・・・をそろばんの上に置く。前述のように、そろばんは外部記憶装置である。次の数値は、「78」と聞いた段階ではそれが「78億円」なのか、「78万円」なのか、「78円」なのかの単位が不明なので、計算できない。「78万」と聞いた段階で計算することになる。その78万・・・とそろばん上の値を暗算で計算している時に、3番目の数値2568億・・・が聞こえてくる。このように、上級者の読み上げ算では常に次のように頭脳を使うようになる。
  ① そろばん上の数値と2番目に聞いた数値を頭脳の一部で計算し、その結果をそろ
   ばん上に置きながら、聞こえてくる3番目の数値を頭脳の一部に記憶しておく。
  ② そろばん上の数値と3番目に聞いた数値を頭脳の一部で計算し、その結果をそろ
   ばん上に置きながら、聞こえてくる4番目の数値を頭脳の一部に記憶しておく。
  ・・・など。
 つまり一部の頭脳は計算を担当し、一部の頭脳は記憶を担当することになる。記憶した数値を計算するために、頭脳内でその数値をやり取りしているものと思う。このように頭脳を2つに分けて用いることがそろばん脳の3番目の特徴である。この過程は、やはりコンピュータに近い。コンピュータは入力した数値をいったんどこかに格納し、それをCPU内で計算する。
 上記のような桁数では、ほとんどの上級者は上位の桁から部分毎の暗算となる。ごく一部の上級者以外は、10桁以上の暗算をできないからである。このため、上記例の頭脳内の暗算は少しだけ煩瑣になる。
 なお上記のような大きな桁数の読み上げ算を電卓で計算する場合は、少ない桁数の場合とほとんど同じ操作でよい。そのため、電卓計算時の頭脳はそろばん脳とは大きくかけ離れている。
 頭脳を2つの部分に分けて使うという特性は、日常生活の訓練からでも得られるかもしれない。私はNHKテレビニュースを視聴する時には、通常は新聞を読みながらNHKの音声を聞いている。時々、テレビ画面に目を移すが、NHKの音声情報は100%捕捉できている。私の場合は上記のそろばん脳である。そろばん脳でない人も、上記のようなことはできると思います。それでも、そろばん脳と通常の頭脳を比較した時の音声捕捉率は前者のほうが高いと思います。
 そろばんの上級者になると、伝票の加算もある。伝票とは、文庫本を一回り小さくした紙片に5個くらいの数値が縦に併記されているものである。この伝票が複数枚綴じられている。そこから20枚くらいの伝票を用いて順次計算することになる。例えば、上から3番目に記載されている伝票の数値を20枚加算する。そのため、上級者になると各頁に記載されている6桁から7桁くらいの数値を一瞬にして読み取り、前記のような暗算を用いて計算していくことになる。一瞬にして、特定の場所に記載してある6桁から7桁程度の数値を読み取ることができるということがそろばん脳の4番目の特徴である。
 日常の生活や仕事をしていると、上記のそろばん脳の特徴のうち1番目の暗算はすぐ気が付く。また4番目の特徴である6桁から7桁程度の数値を一瞬にして読み取るということも、データの転記時やコンピュータへの入力時に気が付く。前者は他者でも気が付くが、後者は他者では気が付きにくい。
 3番目の特徴である頭脳を2分割で用いているということは本人でも、自覚しない限り、気が付きにくい。2番目の特徴である外部記憶装置と頭脳との連動も、本人がそうかと気が付くものである。
 上記で述べたそろばん脳の特徴のうち、1番目、3番目、それに4番目は日常何かと有用であるということが私には自覚できる。2番目の特徴はどのような有用性があるかは私にも分かりません。

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2006年2月 3日 (金)

地域別消費の跛行性

 地域別の消費、あるいは都道府県別の消費には跛行性(はこうせい)がある。つまり、特定商品の消費には地域(以下、「地域」は地域、あるいは都道府県という意味で用いる)間で先後関係があり、特定の地域で先に消費され、それ以外の地域では後に消費されるということがある。この跛行性を流行や、メーカーの設定する地域別販売目標などとの関係で考えてみたい。なお、流行については過去のブログ(1月13日など)も参照してください。
 まず流行との関係から。
 ある流行は、一般的には大都市地域から始まる。そして、それが近隣地域や、その他の地域に伝播していく。例えば2005年秋の婦人服で、ある流行が8月下旬ごろから東京で始まったとしよう。(以前のブログで述べているように、東京の秋物の流行は札幌の方が先に始まる場合が多い。この点は無視する。) この流行は9月頃から、愛知や関東近県に伝播していく。ところが2005年中に、この流行がすべての地域に伝播しないことがある。東京から離れた地域では、この流行が2006年秋に現れることもある。
 流行には、このような跛行性をもって現れるケースも多々ある。このため、2005年中に完売できそうにない秋物流行婦人服を、2005年中にバーゲンなどでタタキウリする必要がないこともある。この点を確かめないで、タタキウリすると大損する。
 次にメーカーなどが設定する地域別の販売目標との関係を述べる。
 ある耐久財(例えばプラズマテレビ)のメーカーの例を取り上げる。このメーカーは2006年度上期の販売台数目標を立て、それを地域別の営業所や販売会社(当該メーカーが資本参加している代理店)などに振り分ける。不思議なことに、ほとんどのメーカーは次のような地域別割当をする。全国の上期の販売台数目標が2005年度下期、あるいは同上期のA倍ならば,すべての営業所・販売会社などの販売台数目標も同じようにA倍とする。そして、この目標を基準としてリベート(目標達成報奨金)を設定する場合もある。リベートは次のようになる。
   販売台数目標100%達成・・・ 仕入れ代金のX%
   販売台数目標110%達成・・・ 仕入れ代金のY%
   販売台数目標120%達成・・・ 仕入れ代金のZ%
   ・・・・・など
もちろんX<Y<Zである。
 先進的な商品の消費では、地域間に跛行性がみられるということを上記例は考慮していない。このことにから生まれるマイナスには次のようなものがある。
 営業所・販売会社などの間に、目標台数達成がきわめて容易なところや極めて困難なところなどが生まれる。例えばたいした努力をしなくとも、対前期比でA倍の販売を達成するところも出てくる。その一方で、どんなに努力してもA倍の販売を達成できないところも出てくる。
 またリベートの使い方が不適切なことは容易に分かろう。同じ総額のリベートを用いても、地域別の販売台数目標を地域間の跛行性を考慮して決定する場合と、考慮しないで決定する場合とでは、全国の販売台数は大きく異なるであろう。
 それでは地域間の跛行性はどのようにすれば分かるのであろうか。この跛行性は同じパターンで表われることは少ないから、その都度の消費者や販売店などの調査しかない。ただし流行は時間的制約があり、かなり難しい場合もある。全国展開する婦人服ブティックなどは、この面では有利であろう。先進的な商品の場合、費用さえあれば、地域別需要動向を知ることはそんなに困難ではない。それでも費用対効果を考えると、調査はプラズマテレビなどの大型商品(高価格商品)に限られるかもしれない。

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