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2006年2月18日 (土)

直観型頭脳と論理型頭脳

 前回の頭脳の続きです。主として数学や私の経験を踏まえて、直観型頭脳と論理型頭脳について述べたみたい。
 私は、小学校2年後期から中学校3年まで、算数・数学の予習をしていた。小学生の頃のことはほとんど記憶にないので、中学生の頃のことを述べておく。だいたい予習は、今後の授業の2週間分を目処に学習していた。この予習では、教科書を1回読むだけでほとんどすべてを理解でき、練習問題もほとんどすべて解けた。どこの部分でも、教科書を2回以上読んだことはほとんどない。教科書中のすべての問題を対象として、予習で解けなかった問題は2つから3つ程度であった。このような状況下で、私は「数学は本を読めばすべてが理解でき、練習問題もすべて解ける」という自信を持つようになった。
 ところが、高校の数学である経験をした。当時の数学は、数学Ⅰ、数学Ⅱ、幾何学の3つに分けられていた。このうち、数学Ⅰと数学Ⅱはやはり教科書を読むだけでなんなくすべてを理解できた。練習問題も簡単に解けた。この面では、中学校の延長であった。
 しかし、幾何学はそうはいかなかった。幾何学は、教科書の内容はなんなく理解できるのであるが、練習問題では容易に解けなかったものが多かった。このため、幾何学の教科書は何回も読んだ。それでも、解けない問題がかなり多かった。解が記載されている問題では、解をみれば「なーんだ」程度ですぐに理解できた。簡単に言えば、「ここに1本の補助線を引く」という記載を読んだ瞬間にその解は分かった。ただし、どこに補助線を引くかは、練習問題をみた段階では私には見当が付かなかった。
 上記のような経験から、高校生の頃の私は「幾何学は数学ではないのではないか」という疑問を持つようになった。私の中では、幾何学は明らかに数学Ⅰや数学Ⅱとは大きく異なる分野であった。こんな疑問は、成人した後に読んだポアンカレ著・吉田訳『科学の価値』岩波書店1977年で氷解した。
 ボアンカレによると、数学者は2つの相反するグループに分けられるという。一方は論理型で解析学者と呼ばれ、他方は直観型で幾何学者と呼ばれることが多いという。そして、論理型や直観型は生得の資質であり、後天的に獲得する資質ではないという。『人は幾何学者として生まれ、あるいは解析学者として生まれつくのである。』さらに、一般関数論を築き上げた2人の数学者を次のように対比している。
  ◎ ヴァイエルシュトラース(論理型)はすべてを級数の考察とその解析的変換とに帰
   着させてしまう。彼の書いたどの本にも、図形が一切見当たらない。
  ◎ リーマン(直観型)はすぐさま幾何学に頼ろうとする。彼の着想はどれをとっても映
   像・・・なのである。
 このポアンカレの図書を読んで、私は論理型であったと分かった。そして、直観型の映像的着想ができなかったがゆえに幾何学に苦労したことも分かった。現在の私は理論経済学の研究をしているが、頭脳内に浮かぶのは常に記号である。記号の演算は、無意識でも、あるいは夢の中でも行っていることがある。研究時に、図形や映像が頭の中に浮かぶことはない。ただし、子供の頃にそろばんを習い暗算には習熟しているので、数値の計算時にはそろばん球が頭に浮かぶ。(以下は余談。直観型の子供と論理型の子供とでは、どちらがそろばん上手であろうか。)
 直観型の頭脳内の働きをもう少し述べておく。高名な数学者J. アダマール(直観型)はある数学の証明における自身の心象を具体的に述べている。例えば証明のある段階で「2から11までのすべての素数を考える」時に、彼自身の頭の中では『私にはあいまいな塊が見える』と述べている。さらに、彼は『私が実際に思考しているときには、頭の中には言語はまったく存在しないと私は主張できる』と述べている。彼の場合、言語と代数の記号は同様の働きをしている。(以上、J. アダマール著・伏見他訳『数学における発明の心理』みすず書房1990年による。)
 高名な物理学者でノーベル賞受賞者でもあるR. P.ファインマンは、どこかで、『物理学の論文を読んでいると、機械や装置のようなものが頭の中に浮かんでくる』というようなことを述べていた。彼の場合は、数式などが機械や装置の一部になるようである(物理学を学んだことがある私は、このようなことは経験したことがない)。彼は直観型といえよう。
 私のように論理型の人は「文字や記号を図形・映像などに転換する頭脳内操作」が不得手なのではないであろうか。それでも、私は若干ではあるが図形・映像に転換することができる。具体例をあげておく。
 私は詩歌が好きである。例えば島崎藤村の「千曲川旅情の歌」の場合。
    小諸なる古城のほとり、雲白く遊子悲しむ、緑なす・・・
私には、この詩の全体の光景は頭には浮かばない。浮かぶのは部分部分の光景であり、それらが断片的に存在しているだけであり、連結・連接していない。もちろん、音も聞こえてこない。
 最近になって「自分でビデオカメラを操作している場合を想像する」ように意識することによって全体を映像的に捉えられるようになった。まだ短歌や俳句などの短い表現に限られるが。例えば佐々木信綱の
    ゆく秋の大和の国の薬師寺の、塔の上なる一ひらの雲
の場合。現在の私は、次のような段階的な映像を頭の中に描くことができるようになった。
    日本列島のゆく秋⇒大和の国のゆく秋⇒薬師寺のゆく秋・・・
しかし、これらの映像が走馬灯のように一続きのものにはならない。
 俳句では、意識することによって一つの映像として頭の中に描くことはできる。芭蕉の
    象潟や雨に西施がねぶの花
の場合がそうである。まだ意識しないと映像化はできない。映像化ができるようになって、この句の意味がより深く理解できるようになった。
 私は論理型であるがゆえに、直観型の人の頭の中がどのように働くのかに大いに興味を持っている。そこには、私の知らない世界があるのではないだろうか。また私のように意識することによって、論理型の人も直観型に近づけるのではないだろうか。

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