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2012年2月11日 (土)

憲法の欠陥、あるいは既得知識へのしがみつき

憲法は国民のものである。その国民の大半の人たちがあずかり知らないところで決定された現在の日本国憲法とは何なのであろうか。さらに現存の国民の大半の同意がない憲法の各条文を国民が遵守する必要があるのだろうか。その上に憲法は完備性に欠けている(この点については、過去の当ブログを参照)。それにも関わらずに護憲(憲法を護る)、護憲と唱える人たちが存在する。そのアホさ加減を、わが国の司法の不備、司法関係者の「既得知識へのしがみつき」とともに論じてみたい。

憲法が真の意味で「国民のもの」であるためには、現存の国民の同意や賛意が必要である。そのためには、憲法のすべての条文について国民の判断を問う必要がある。例えば憲法の条文を幾つかに区分けして、その区切り毎に国政選挙時に○×式に国民の判断を問うのである。最高裁の判事の適否を国政選挙の時に問うている「×式」のような形式である。そして、一定数以上の○がない場合、あるいは一定数以上の×がある場合に限り、それらの条文の再検討・審査をするのである。そのようにして、およそ30年間で憲法のすべての条文に国民の判断が下されるようにする。この際に、すべての条文について一定数以上の○がつけられている場合に初めて「憲法は国民に支持されている」ということができるであろう。それで初めて、「憲法は国民のもの」となるのである。

憲法でもっとも大事な日本国民の定義は第10(日本国民たる要件)で記載されているが、それは「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」とある。(私は憲法の中に大半の国民が含まれる『日本国民たる要件』を記載しておく方がよいと思う。) ここでは具体的な法律名は記されていない。『岩波コンパクト六法』昭和56年版では、*(参照すべき条文)として「国籍法」が挙げられている。その国籍法の第1(この法律の目的)は「日本国民たる要件は、この法律の定めるところによる」とある。だから、この条文だけでは憲法の第10条に対応しているとはいえないはずである。少なくとも、この国籍法の第1条に憲法10条に基づく法律である旨を記載しておかねばならないのである。要するに、憲法と国籍法の対応が記載されていないのである。この点を憲法・司法の不備として指摘しておく。

ついでにもうひとつ憲法、あるいは司法の不備を挙げておく。第25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」である。この条文の「健康で文化的な最低限度」の生活とは何かが明記されていないところから問題が生ずる。例えば、現在では「生活保護家庭ではエアコンが必需である」が、これは司法当局(最高裁?)の判断なのである。この条文の場合、前記に続けて「健康で文化的な最低限度の生活とは○○法でこれを定める」と付加しておけばよい。そして、○○法では何年に一度か見直すと明記しておき、より具体的に記載するようにしておく。そうしないと、最低限度の生活の判定に、国権の最高機関たる国会が関与できない。

さて、先の国籍法であるが、この法が制定されてからすべての条文が不変であるのだろうか。法律に無関心な私の推測であるが、中国残留孤児の帰国、難民の受け入れなどを考えると、これまでに何度か改正されているはずである(上記六法には、改正の記載がある)。以下、改正されているとして述べる。

 憲法と国籍法の上記の関係を考慮すると、国籍法の条文も憲法のそれとみなさなければならないはずである。そうすると、国籍法の改正は憲法の改正と同じことになろう。護憲を唱える皆さんは、この点をどう考えているのだろうか。もちろん、上記の「最低限度」の生活の定義(正しくいうと、定義らしきもの)の変更も憲法の改正に相当するであろう。

 世に「既得権にしがみついている」という言葉がある。それ流にいうと、司法関係者は「既得知識にしがみついている」といえよう。時代遅れの法律の文言などはその最たるものである。一般の国民が理解できないような用語が散乱している法律などは、それこそ常用漢字を用いて書き直すべきである。この書き直しによって、法律の解釈が微妙に変わることがありうる。そうすると、既得知識が役立たなくなる。このため。司法関係者は法律の文言の書き直しをやらない、このように私は解釈している。司法に携わる人たちの憲法に対する態度・関心なども、「既得知識へのしがみつき」という視点からみると納得できよう。

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