若き牧水が「幾山河」、ならば「白鳥」を添削
俵万智さんの『牧水の恋』文春文庫を読んだ。一言でいえば、このような伝記があるんだという思いと、これには万智さんが最適だなと思った。でも、次の牧水の歌が若き日、早稲田大学在学中のものであったと知ってがっかりした。
幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく。
白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ。
「幾山河」とは、おおげさのように思えるのだが。短歌には創作もありと思えばそれもよしであろうが、なんかなあ、、、。西行の下記も若き日の作なのだろうか。
わきて見む、老木(おいぎ)は花も、あわれなり、
今いくたびか、春にあうべき (2016年3月25日の当ブログも参照)。
かなり前の5月の連休の頃に、私は八丈島の南にある鳥島へ行ったことがある(もうアホウドリは遠くへ飛び去っていた)。友から離れ、一人岩の上で海と空を見ていた。まさに絶海という表現がぴったりであった。その時に牧水の「白鳥」が頭に浮かんだ。この鳥は白い大きな鳥でなければならないと思った。そして大空に飛ぶ姿を下から見ているのだから、鳥の下部が白ければよいとも思った。この鳥はハクチョウではありえない。さらに言えば空間的な広がりを感ずるためには水平線が見えたほうが良い、すなわち空の色と海の色が異ならなければならない。空と海が同じ色ならば、もやっとした感じで水平線が見えない。
このような記憶から牧水の「白鳥」を勝手に添削、あるいは書き換えてみた。
白鳥は哀しからずや空の碧(あお)、海の群青(あお)にも染まずただよふ。
初めのアオは紺碧の空のそれ、後のアオは群青の海のそれである。初めのみ変えて後を青とすれば、杜甫の下記の絶句と響きあう。
江は碧(あお/みどり)にして、鳥いよいよ白く、
山青くして花然(も)燃えんと欲す、、、。
この添削を万智先生は褒めてくれるかなあ。なお、この牧水歌の万智さんの解釈等は上記書50頁以下にある。
日本人は古来、色彩に敏感であったと思う。例えば茶色は50種類、ネズ色は100種類 (50茶100ネズ)ある。私たちはこの色彩感覚を大事にしたいと思う。
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コメント
私は幾山河と白鳥の歌が好きなんですが、白鳥と杜甫の絶句との関係は知りませんでした。記事のように、紺碧と群青に賛成です。
投稿: 白鳥 | 2022年1月 1日 (土) 11時43分