2009年1月18日 (日)

誤記ぶりに驚く翻訳書

 あまりのゴキブリ(誤記ぶり)に驚く翻訳書がある。怒りを込めて、それを告発する。それは好田順治監修、久保儀明訳、ポール・J・ナーイン著『虚数の話』青土社発行、2008年である。今時には極めて珍しいことではあるが、この本には正誤表が付いているのである。その数たるや80個以上もある(あまりにも多いので、数は数えていません)。これだけ多くの正誤表をつける図書を発売する出版社、訳者、監修者とはどのような会社・人なのであろうか。「恥を知れ」といいたい。本書の買い手が、それを訂正する手間たるや大変なものである。この正誤表に最初から気が付いていたら、おそらく本書は買わなかったであろう。
 本書の内容はとてもすばらしい。多少なりとも数学の神秘性に興味のある人には推薦できる内容である。そんな書の原著者にも失礼であろう。それだけに、「出版社、訳者、監修者のゴギブリヤロウ」と叫びたい。多分、正誤表が必要となった原因のほとんどがこの後者の2人にあるのではないか。
 さらに言えば、訳者と監修者は数学の知識が少し不足しているようである。例えば下記のような翻訳書の誤りがある。
  111頁最終行の訂正式Z(n-1)はz(-n)となる。カツコ内は上添え字。
  121頁訂正式の後の「つまり」の後の式に、「パイ=」が必要。パイはギリシャ文字。
  その他にもある。
こんな誤りは、数学が知らない人が犯すものである。
 本書を全部読み進むと、さらに驚くべきことがわかる。本書は新訳版なのである。前訳版は監修者の訳で出版されているようである(2000年好田名の「訳者あとがき」がある)。新訳版の訳者(久保)あとがきには、訳者の数学的素養の欠如が明記されている。これらはどのように理解すべきなのであろうか。素直に理解すれば、「前訳があまりにもひどいので、新訳となる改訂版を出版した」、「だか、新訳者を早期に決めたので、その数学的素養には配慮が不足していた」となろう。それが前述の有様となったのであろう。出版社やその担当者は職業倫理が欠如している。
 出版社に注文する。ちゃんと訂正したものを再度発売すべきである(正しくは、ちゃんと再訂正したものを再再度発売?となる)。その際は、訳者と監修者を替えた法がよい。現状では、本書を手に取る人は少ないであろう。よい本を、このような形でうずもれさせてはならない。

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2008年11月30日 (日)

神谷秀樹『強欲資本主義、ウォール街の自爆』を読む

 神谷秀樹『強欲資本主義、ウォール街の自爆』文春新書2008年10月を読んだ。久しぶりにすっきりした読後感を味わえる本に出合えた。以下、私が共感するところなどを自説とともに、内容紹介する。頁数などは省略する。神谷記述は『』で示すが、若干私が手を加えてあるところもある。
 『ウォール街の連中は違法と合法の境目で、ルールを守っていれば何をしてもいいと思っている。』彼らとともに彼らに準ずる日本の連中が「法を犯していなければ」何をしてもいいと思って行動していると私は想像している。しかし、これがおかしい。金融の世界では、「法が想定していないような状況や商品など」を彼らが作り出しているのである。その中で「法を犯していなければ」という条件は通用しないはずである。ホリエモンの修正条項付き転換社債で大儲けをしたリーマンを想起してほしい。最近のアーバンにからむBNPパリバも同類である。同書で具体的な例が記述されているが、ビジネス上の倫理観の欠如といえる。
 これらの記述を読んでいて、M.ウェーバーの「Paria-Kapitalismus賎民資本主義」という言葉を思い出す(ウェーバーは、社会的なモラルを超えて営利を追及する人たちに対して、・・・、賎民という用語を用いている)。すなわち、金を儲けるためなら何をしてもよい、法を犯してさえよいという考え方が浸透している社会をさす言葉、あるいはそのような行為をする人(賎民)が突出している社会をさす言葉として用いている。(これについては、当ブログ06年5月4日記事も参照。) 
 ファンドなどが企業を買収する場合は、常にコスト・カットと従業員の解雇が付きまとう。これは、ファンドが将来のキャシュフローからみて確実な手段を選択するからであるという。『事業を改革する、新製品を開発するというグロース・ファクター(不確実な成長性)を無視するからである。確実に自分たちでできるコスト・カットを見ている。』 そういえば、どこかの自動車会社のCEOもコスト・カッターと呼ばれていた。私は、この自動車会社の将来を不安視している。
 『ウォール街の大物が政府高官になる理由のひとつに「タックス・ホリデー」がある。これは、利益相反関係を防ぐため、政府高官就任に当たって持ち株を売却した際に、その利益に課税されないという特典である。』 大物たちは、ストックオプションで大量の株式を保持している場合が多い。だから、安い月給でヒマもない政府高官に就任するのである。
 今回の金融危機、百年に一度の危機を招いた犯人として、アメリカ政府の他に日本政府があげられている。日本政府の罪も相当なものであるという。日本の『ゼロ金利、過剰なまでの円安維持、低金利政策』など非難されてしかるべきものである。私も、日銀によるゼロ金利、それに続く超低金利政策は指弾されるべきだと思う。前日銀総裁の罪は相当なものだと思う。今米国で、FRB前総裁のグリーンスパンが非難されているように。
 とにかく、本書は多くの人に読んでもらいたいと思う。特に金融政策に当たる人たちに。

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2008年5月27日 (火)

名作・古典の新訳化の流れを評価する

 過去の名作・古典を新しい訳で出版する流れが出てきている。例えば光文社古典新訳文庫ではドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、シェイクスピア『リア王』、レーニン『帝国主義論』などが刊行されている。その文庫の最終ペイジには「いま、息をしている言葉で、もう一度古典を」ということを意図して古典新訳文庫を創刊したと述べられている。私は、この創刊の意図を高く評価する(ただし「もう一度」でない場合もある)。
 私はかなり以前から外国文学の翻訳書が格段に読みやすくなっていると感じていた。多分、この感じを得たのはスタイロン著・大浦訳『ソフィーの選択』1983年発行を読んだ時だったと思う。そしてシユリンク著・松永訳『朗読者』2000年発行を読んだ時には、この感じは確信に近いものとなっていた。
 この経験を、世界文学全集を読むのに大変苦労した高校生の頃の経験(1960年前後)と比較してみた。そして得た私なりの結論は「昔の翻訳が読みにくかった」ということである。その理由は簡単に分かる。1つは、これが大事なことであるが、現在の翻訳者が対象言語に様々な面で精通しているということである。極端な例でいえば、昔の翻訳者は対象言語のロシアや英国に住んでいたことも滞在したこともなかった。現在の多くの翻訳者は対象言語のそれらの国での居住経験も長かったり、いわゆる「バイリンガル」に近い能力を持っていたりする人が多いものと思われる。もうひとつは読み手の側にもある。グローバル時代であるから、諸外国の情報に日常的に接する機会が多くなり、それだけ読み手も諸外国の知識を持っている。
 私は前記の『カラマーゾフ』を読んでみた。はるか昔のおぼろげな記憶に比べると、やはり格段に読みやすかった。これには、上記の2つの理由が寄与しているものと思われる。多分、翻訳の水準も新しいものの方が格段に向上しているのであろう。
 私は光文社古典新訳文庫が事業として成功し、数多くの名作・古典が新訳化されて光文社やその他の出版社から発行されることを望む。微力ながら、このうちの何冊かを購買して、この試みを応援するつもりである。

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2007年12月 9日 (日)

居眠り磐根、江戸双紙を読む

 最近、佐伯泰英『居眠り磐根、江戸双紙』双葉文庫にはまっている。これはNHKテレビで放映されたせいかかなり売れ行きがよいようである。帯の表記「平成の大ベストセラー」はチト大げさではあるが。それで、私の読後感などを述べる。
 第1巻や第2巻を読んでいる時は、藤沢周平の著作によく似ているという感じがした。彼の『用心棒、日月抄』にそっくりな印象であり、彼のものよりやや荒削りな小説という感じであった。長年にわたり藤沢周平のフアンであり、彼の亡き後に物寂しさがあったところに、ソックリさんの登場である。はまる要素が備わっていた。
 巻が進むにつれて、荒削りなところが薄まり、かなりこなれてくる。おそらく著者の佐伯氏も巻が進むにつれて成長しているものと思われる。10巻前後の以降のものはかなりよいデキといえよう。
 全体的にみると、藤沢周平のよいところが随所に取り入れられているようである。私の好きなところ、例えば藤沢の『漆の実のみのる国』の中の「殿様と心許せる家臣の会話ややり取り」に類似の箇所が何度も登場する。私はこの佐伯本の場面も好きである。
 恐らく、周平フアンには、佐伯氏の登場は好感がもたれるであろう。私は、佐伯氏がこの路線を進むことを願う。そして周平のよいところを残しながらも、佐伯氏独自の世界を時代小説の中に築くことをも望む。
 何時の日か、「海坂藩(うなさかはん)」と同じように「豊後関前藩(ぶんごせきまえはん)」が時代小説ファンの中に共通の話題として度々登場することがあるかもしれない。

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2007年5月27日 (日)

『漢詩百首』を読む、さわやかな感動あり

 高橋睦郎『漢詩百首』中央公論新社を読んだ。漢詩や和歌が好きなこともあり、読後感はさわやかであり、幾つかの感動もあった。
 でも、私が最も評価するのは本書の付録ともいうべき次の3つである。1つ目は鈴木氏との対談「漢詩は日本語の財産」である。読んでいて、なるほど漢詩は日本語、というよりは日本文化の財産であるということが納得できた。教育、特に小中学校における教育で漢詩がないがしろにされている現状をなげいている両者に私も同感である。
 2つ目は「漢詩への感謝」と題された中国での講演記録である。先の大戦で敗れた時に日本人一般の意識に上ったのは杜甫の「国破れて山河あり」の句であったという。考えてみれば、これは少し変である。日本は中国とも戦ったのである。戦敗国の日本人が戦勝国の中国人の詩句を思い浮かべる。それほどまでに漢詩が日本人の心の中にしみこんでいたということであろう。
 3つ目は「おわりに」である。著者の母のことが記述されているが、私には「そんなことも」と驚いた。ごく普通の女性と見られる女性が臨終の直前に医師などを集めて『鞭声しゅくしゅく、夜河をわたる』と吟じたという。
 著者たちがいっているように、優れた漢詩や日本語の詩歌などは幼少時に何度も口ずさんで記憶することは大事なことであると思う。私は、小学の5年生と6年生の時に百人一首のうちの30首程度を記憶した。これには、少し努力した。しかし、その後は漢詩や詩歌などは2回か、3回程度ムニャムニャと唱えるだけで簡単に記憶できるようになった。子供の頃の私は、このように簡単に記憶できることは自分の才能ではないかと思っていた。(しかし、後年になって、これは前記の30首程度の記憶のタマモノであると知った。和歌を30首程度記憶する過程において、詩歌などで特別に必要とするもの、例えば言葉のリズムなどが身に付いたからである。社会人になって、会社の製品別・日別・販売状況も標準的な販売金額を一端記憶できた後には簡単に記憶できた。ある事の基本的なことを記憶すると、その以降はその事の変化なども簡単に記憶できるのである。) これは学校のテストには極めて有益であったし、漢詩や詩歌を記憶していることで多くの利点も得た。多分、語彙も豊富になったし、表現方法も豊富になったと思う。
 私は子供たちの国語教育には、小学1年生・2年生までには『奥の細道』を必須とすべきであると感じていた。子供たちは意味が理解できなくとも、これをそらんじる、あるいは朗読するのである。昔の寺子屋の教育のように。優れた文章の持つリズム感などを幼少時に身に付けるのである。それが、子供たちの財産になると思う。

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