2005年10月12日 (水)

持続可能で公正な世界とわれわれの将来の生活

 これから将来に向けて持続可能な世界(むしろ持続可能な地球といい変えた方がよい)とはどのようなものであろうか。そこでのわれわれの生活はどのようになるであろうか。ブリックスBRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)と呼ばれる4大国の台頭を目にする今、このテーマはより緊迫したものとなっている。例えば、これら4国以外の国々の経済状態が現状のままとして、これらの4国の1人当たりの経済水準がわが国の現状に近づいたと仮定してみよう。この仮定の下では、地球は持続可能なものとはならないであろう。再生不可能な資源(石油、石炭、鉄鉱石など)の枯渇はもとより、再生可能な資源(木材、魚など)でも枯渇へと急速に向かうであろう。これに加えて、排出される汚水、煙・ガス、固形廃棄物などの処理も限界に近づくであろう。
 最近、メドウズ他著(枝広訳)『成長の限界、人類の選択』ダイヤモンド社2005年を読んで、上記の懸念が一層現実味を持ってきた。この書は原題がLimits to Growth: The 30-Year Updateであり、この書名から分かるように『成長の限界』のアップディト版である。
 この書のキーワードの1つの「エコロジカル・フットプリント」は興味深い概念である。これは「さまざまな国民に、彼らが消費する自然資源を提供し、かつ彼らの汚染排出を吸収するために必要な地球の表面積」のことである。つまり再生不可能な資源を取り出すために利用する地表面積、再生可能資源を生産・獲得するための地表面積、さまざまな排出物を処理するための地表面積(これには、地球の生態系に処理をゆだねる面積も含まれる)などの合計である。必要な地表面積で計算するところがミソである。しかし魚などの場合は海水の容積で、あるいは大気の場合は体積で考えなければならないが、その処理方法は不明である。
 人々の間の公正という観点に立つと、BRICsの人たち、あるいはその他の発展途上国の人たちの今後の経済成長を阻止するわけにはいかない。そうなると、早晩、上記のエコロジカル・フットプリントは限界以上になる。(世界自然基金WWFの推計によると、1980年代後半以降に、この値は地球が提供できる能力(地球の表面積)を越えているという。つまり、世界・地球の持続可能性は崩壊の過程を既に歩みだしていることになる。)
 「いかにして持続可能で、公正な世界を実現するか」という問題に対する解決策は1つしかないと思う。それは、世界・地球の持続可能性を前提条件として、日本やアメリカなどの先進国の国民の物的生活水準を低下させることである。多分、今後徐々にこの水準を引き下げていかなければならない。ここで大事なことは、物的生活水準の低下であって、非物質的なそれではないということである。
 今後も、われわれの非物質的な、あるいは精神的な(古い言葉でいえば「形而上」、英語ならmetaphysical)生活水準を維持・向上させることは可能である。そうはいっても、モノやエネルギーを消費せずに、心の豊かさを求めることには限界がある。たとえば、読書のためには書籍を購入するであろうし、カルチャーセンターに出席するためには交通手段を利用するであろう。もちろん、図書館を利用し、徒歩で出席することもありうる。非物質的な活動に要したモノやエネルギーは他の生活局面で節約しなければならない。
 今後のわれわれの生活で理想となるものは、「現在の平均よりもかなり低い物的生活水準で、かつモノやエネルギーをあまり使わない精神生活に満足感や幸福感を見出すこと」であろう。この代表的な例としては、「毎日一汁一菜で、アキ時間に念仏を唱えて幸せな気分に浸る」というような生活である。もちろん、小声での念仏となる(大声を出すとそれだけ腹がへる)。
 どうです。みなさんはこの輝かしい将来に耐えられますか。今から、その心構えが必要です。
 私は、「毎日一汁一菜で、アキ時間に数学を考える」という生活を送ろうかなと思います。数学ならば、ほどほどの知力と紙と鉛筆で十分です。数学の代わりに、任天堂DSの数学ドリルに挑戦ということも考えられます(私はイヤですが)。
 
追記 アナーキストと呼ばれたP. クロポトキンの自叙伝を読んでみると、彼の出発点は今でいうエコロジストであったといえる。現在のエコロジー的な考え方を学んで気が付いたことのひとつにアナーキズムの復活があります。上記の持続可能性と公正の他に、アナーキズムの3つがこれからのキーワードになるかもしれません。
 なおアナーキズムや国家のあり方(大きな政府か小さな政府かなど)については、R. ノージック(島津訳)『アナーキー・国家・ユートピア』木鐸社1992年も参考にしてください。

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2005年6月 9日 (木)

アレフ、カバラ、オウム真理教

 オウム真理教の名称変更のウラをよむ。

 オウム真理教は「アーレフ」と改称した。彼らは、「アーレフ」はヘブライ語のアルファベットの最初の言葉であると説明している。それならば、なぜアーレフを選択したのであろうか。英語のエーやギリシャ語のアルファでもよいのではないか。

 少し数学を学んだものには、「アレフ」は無限集合を表す記号であるということが分かる。集合論を完成させたカントールは、無限集合を表す記号としてアレフを用いた。彼はユダヤ系キリスト教徒であるが、ユダヤ教やその周辺の知識も豊富であったと想像できる。

 カントールが無限集合にアレフを用いた背後には、カバラ(ユダヤ神秘主義と瞑想体系をさす)が存在していたものと思われる。カバラの教義のひとつに「アレフは神と無限を象徴する」がある。これらの詳細はA.D.アクゼル(青木訳)『[無限」に魅入られた天才数学者』(原題は『アレフのミステリー』)早川書房2002年が参考となる。なおユダヤ知識人の多くはカバラに親近感を持ち、その教義などにも通じているようである。例えばエリ・ヴィーゼルの自叙伝(『そしてすべての川は海へ』、『しかし海は満ちることなく』朝日新聞社)では、カバラのことがところどころ記載されている。

 オウム真理教は古代仏教とヨガを中心とする教団であるといわれている。上記のカバラやアレフを考えると、この教団は「古代仏教神秘主義とヨガを通じた瞑想体系」を重視しようとしているのではないだろうか。これが小生の推察である。カバラに通じている識者の判断はどうであろうか。

 それにしてもカントールは悩まなかったのであろうか。カバラでは「アレフは1であるとともに無限である」。無限と1は相性が悪く、無限とゼロなら相性がよいはずである。例えば空集合(ゼロからなる集合)は、すべての集合に含まれているから、遍在している。つまり空集合は無限に存在しうるのである。

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