2016年6月19日 (日)

数学脳と英語脳

 数学脳と英語脳について私の感想を述べたいと思います。
 1900年頃活躍した数学者・物理学者のポアンカレは『科学の価値』の中で数学の歴史に触れて、数学は「直感派」と「論理派」の2つの派によって発展してきたと述べている。そして、2つの派では数学への考え方や数学の対象などが異なると述べていた。2つの派は対立ではなく併存と呼ばれる状況にあったようである(私の感想)。そして前者の代表である人の著作集を読んでみると、そこには数式はほとんど表れずにもっぱら図表を活用して述べていたという。また、後者のある人の著作集では図表は一切使わずにもっぱら数式が活用され述べられていたという。ポアンカレによると前者から後者への転向、あるいは後者から前者への転向はないという。「人は直感派として生まれてくる、あるいは論理派として生まれてくる」という。だから数学脳は2つに区別できる。
 私は、この説明がストンと理解できた。私は高校の数学はほぼ独学で身に着けた。その時の経験でいえば、数学Ⅰ、Ⅱ、Ⅲは教科書を一回読んだだけですべて理解でき、練習問題もすらすら解けた。これに対して、幾何学は、内容は理解できたが、練習問題のほとんどが解けなかつたり、解けてもゲッツンゲッツンであった。それで高校生の頃、幾何学は数学ではないのではないかと思っていた。この経験から、上記のポアンカレの説明が理解できたのである。その後に理論経済学の最先端を学んでいる際に、またこの2つに遭遇した。直感派の経済学はトポロジーや凸解析を用いており、論理派はプログラミングや固有値・固有ベクトルなどを用いていた。この時は、前者の説明は理解できても一向に興味がわかなかつたり、つまらない定理を用いているなと感じていた。後者はフムフムと興味津々で真剣に勉強した。これらの経験から、私は論理派であるなと自覚していた。
 そこで英語脳についてである。英語脳にも、この2つがあるのではないかと思う。私は英語の論文を書くようになって30年以上にもなる。英語の勉強として日本人の執筆による「理科系の英語論文執筆…」(理科系が大事)などの図書はかなり読んだが、どれも簡単に理解でき、しかも記憶に長く残っている。最近では、これらの図書を読みながらも、自分の英語力に優越感すら覚えることもある。
 この過程で、マーク・ピーターセン先生(略歴を読むと、ワシントン大学大学院で日本近代文学を専攻し、その後に正宗白鳥を研究している)の岩波新書『日本人の英語』に始まる一連の日本人英語著作を読んできた。しかも、何回も読み返した。ピーターセン先生は「英語は論理的」であるといっており、その説明は理解できるのですが、一向に記憶に残らない。幾何学での経験と同じです。日本人が言う「英語の論理」は記憶に残るのに、ピーターセン先生の言うそれは雲散霧消します。先生の著作を読むたびに、ある種の敗北感を味わいます。
 それで、英語脳にも数学のように直感派と論理派があるのではないかと想像しています。ピーターセン先生の脳は略歴から推計すると直感派です。それに先生の著作への私の読後感からも直観派です。(初めて先生の『日本人の英語』正・続を読んでいた頃、先生の日本語感覚に驚嘆していました。それで、先生に『奥の細道』を追体験してもらい、先生の紀行文を読んでみたいと思っていました。) 前述の日本人執筆者の英語脳は大半が論理派だと思います。
 少し前に英国の新聞だか何かに、「英語は数学に不向き」という記事がありましたが、内容は忘れました。直感や論理とは無関係に、子供のころ英国人は数学の勉強に苦労するだろうなと思っていましたが。数学を学ぶ上では、日本人は英国人よりはるかに有利です。
 ピーターセン先生が『奥の細道』を解説されたら、その感覚に多くの人が驚くと思います。あるいは、漢詩、特に唐詩に関する著書を執筆されたなら、私のように先生の格付けは直感派になると思います。
 

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2014年4月10日 (木)

パソコン時代に手書きノート必要? アホなSTAP騒動

 昨日9日、STAP真贋問題で、小保方さんの会見があった。そこでの記者たちの質問や後の科学者のコメント、あるいは前の理研の報告でもあった「実験ノート」の存在やその頁数について少し述べてみたい。
 今はパソコン時代である。何かを手書きで、それもボールペンで丹念に記述して残しておく人は少ないはずである。しかも、問題のねつ造・改ざんは画像・写真である。画像・写真の保存には手書きのノートが適しているか、パソコンが適しているか、こんな単純なことが分からない人たちが多かったようである。この画像などをどうやって手書きのノートに残しておくのだろうか。そもそも頁数の多い手書きのノートが必要な人は「残念な人」だと思う。そんな残念な人たちが理研に多く存在するとしたら、それこそ国民が残念に思うだろう。
 もし、実験記録の保存が必要ならば、それらはパソコンを用いた記録・データ・画像であるはずである。実験者のパソコン上にあるそれらを理研本体のサーバーに1日に1回送信・uploadし、その送信物は実験者が触れることができないようにしておけばよい。さらにサーバーに、その送信日時・時間を電子認証などで記録しておけばよい。このような仕組みを作っていないとしたら、それは理研の不注意・不勉強(ねつ造・改ざんとまでは言えない)である。
 小保方さんの会見を聞いていて、少し疑問が残った。彼女は、STAP細胞の初期段階の成果から最終段階のそれまでを何回かに分けて内部(ラボ)研究会で発表しているようなことを言っていた。そうならば、そこに出席した人たちはねつ造に気が付かなかったのだろうか。段階を追って画像も交えて話した彼女の実験結果は、今回の騒動に何の関係もないのだろうか。理研の内部から、小保方さんを援護する人は出てこないのだろうか。
 最後になりますが、私はSTAP現象の存在を信じています。その細胞が万能性を保持しているか否かは不明ですか。

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2006年7月 1日 (土)

明日の将棋、電脳に負けそうな頭脳への応援

 日本将棋連盟が「将棋脳」の解明をめざすという。これは、「将棋では、おそらく頭脳が電脳に負けるのではないか」と連盟が危惧していることの表れではないだろうか。当ブログでも、将棋脳、囲碁脳、そろばん脳などにふれ、それらと電脳との関係も述べた(2月11日、18日、25日)。
 前記の当ブログの中の「頭脳とコンピュータ・ソフト」で、将棋ソフトは極めて強いが囲碁ソフトは格段に弱いと述べた。チエスの世界チャンピオンもスパコンに負ける時代になった。このような状況下で、将棋の名人もやがてスパコン、あるいはパソコンに負けるであろうといわれている。それも、かなり近い将来と予想されている。私もそのように思っている。頭脳が電脳に負けるのをみるのは悔しいので、日本将棋連盟の代わりに、私が負けない対策を考えた。米永会長、参考にしてください。
 電脳の弱点は直観や図形処理にある。この分野では、頭脳の電脳への優位性は当分揺らぐことはないと思う。それは、囲碁ソフトを利用すると直ちに理解できると思う。そこで、将棋の囲碁化を図る。それは極めて簡単である。
 将棋の駒の機能・働きなどやルールはそのまま維持し、駒のみ色付けするのである。例えば王将は金色、飛車は青色、香車は茶色などである。そして、成り駒には斜線を加えるのである。駒の向きのためには、前方に印をつけるなり、前方の一端を少し削る。駒の形は四角形で、なるべく将棋版の枠一杯の大きさになる方がよい。駒のない所の枠は白色でうずめる。対策は、これだけでよい。この時、将棋の棋譜はパッチワークのようにみえるであろう。以下、このような将棋を「画像化された将棋」と呼ぶ。
 このように画像化された将棋は、これまでの将棋を一変するであろう。経験さえ積めば、棋譜や駒組みが画像・映像として捉えられるからである。それゆえに、直観や画像認識力に優れた人は棋譜や駒組みを一瞬にして把握できるであろう。相手の王将の詰みへの手順も、走馬灯のように一連の画像として頭に浮かぶであろう。
 例えば、アナグマの駒組みの場合を想定してみる。標準的な駒組みは○○の模様をしており、最強の駒組みは△△の模様をしており、・・・などとなる。その模様(これらの模様は棋士が記憶している)との比較で、相手陣の駒組みが「黄色となっているところが茶色になっている」、「赤色となるべきところが灰色となっている」などと瞬時に判断できるであろう。それゆえに、相手陣のアナグマの弱点や強点なども瞬時に発見できるであろう。もし弱点ならば、そこを付けばよい。もし強点ならば、そこを崩すことを考えればよい。そうすると、数手先までの手順が一連の画像として頭脳に浮かぶであろう。
 現在の囲碁と将棋のプロ棋士高段者間では、短時間で読める手数に大きな隔たりがある。もちろん囲碁の方の手数がはるかに多い。画像化された将棋では、修練しだいで、人は短時間で読める手数が今よりもはるかに多くなるであろう。それゆえに画像化された将棋では、人間は現在よりももっと強くなるはずである。
 画像化された将棋に強くなる条件も変わってくる。今よりも、直観力や画像認識力が強く要求されるであろう。要求される論理処理能力は今より弱くなるかもしれない。このような条件を満たした画像化された将棋の高段者は電脳に負けないであろう。
 ただ残念なことに、直観型処理が比較的苦手な人(私もそう)は将棋が一層弱くなるであろう。もちろん現在の高段者が、画像化された将棋の世界でも強いとは限らない。ひょっとしたら、羽生さんも米永会長もアマチュアにコロコロ負けるかもしれない。

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2006年2月25日 (土)

頭脳とコンピュータ・ソフト

 頭脳の続きです。将棋と囲碁を比べると、コンピュータは囲碁が格段に苦手のようである。この点について、前回ブログの直観型頭脳、論理型頭脳などとの関連も含めて、考えてみたい。
 私は、幸いにしてか不幸にしてか、将棋も囲碁も1級程度の実力である。ちなみに、この実力は町の将棋・囲碁センターで恥をかかないで打てる程度のものである。アマチュアで強豪と呼ばれるためには、あと2つか3つ上でなければならない。この実力で、それぞれのコンピュータ・ソフトと対戦した私の結果は次のようになる。
 将棋ソフトはかなり強い。当初はソフトの中程度のレベル設定でも私が負けていた。今では、私の方の学習効果が向上し最上級レベル設定でも私が勝てる。ただし、必勝のために守るべき事がある。1つ目は、大駒(飛車や角)を当初に交換しないことである。初めの方にこれを交換すると、私は勝つことがほとんどできない。2つ目は、序盤に優勢になったらそれを守りながらゆっくり相手を攻めることである。それでも、時々私は負ける。ソフトは桂馬の使い方などが私よりも格段に上手である。
 囲碁ソフトはとんでもなく弱い。販売されている最強ソフトと自称しているもので、その最強レベル設定でも、私の相手にならない。今では、その最強ソフトの最強レベル設定で、しかもソフトに20石も置かせても私が楽勝できる。現在の実力でも、私はプロ最強棋士に20石も置かなくても勝てる。
 私のレベルからみると、将棋ソフトは学ぶべきことが多い。それに対して、囲碁ソフトは学ぶべきことはほとんどない。囲碁ソフトには、アホな手が多すぎるという実感を持っている。ただし、囲碁ソフトは終盤になり石が盤面に一杯になると、それなりに良い手を打つようになる。終盤は、時々私よりもうまい。しかし、その段階では勝負は既に決しているのである。
 囲碁ソフトは序盤の石がパラパラしている時に良い手をみつけられないが、終盤の石が多い時に良い手をみつけられるという特徴を持っている。このことがコンピュータの弱点を示唆しているようである。つまり、コンピュータは局面が広い状態では人間の頭脳のような働きができないが、局面が狭い時には人間の頭脳並み、あるいはそれ以上の働きができるようである。
 上記のことを、直観型と論理型に分けて考えるとよりよく説明できる。ここでは、直観型は幾何学的な発想・処理などをさし、論理型は解析学的な発想・処理などをさす(前回のブログも参照)。
 囲碁における序盤は、何手か先の石の姿・配置を想定できるかどうかが重要である。私のように論理型頭脳では、これが苦手である。私は、何手か先の図形、つまり石の姿・配置が頭に浮かばない。直観型頭脳であれば、何手か先、あるいはもっと先の石の姿・配置が頭に浮かぶであろう。囲碁の高段者になると、100手以上先の石の姿・配置が瞬時に頭に浮かぶようである。囲碁のソフトの序盤が極端に弱いということは、コンピュータが幾何学的な発想・処理などに不得手であるということを表しているものと思う。
 囲碁の終盤は、論理で説明できる手が多い。囲碁ソフトの終盤が強いということは、コンピュータが論理的な処理に強いことの表われであろう。
 囲碁は、序盤から中盤にかけて直観型発想を要求され、中盤から終盤にかけて論理型発想を要求される競技のようである。それでは、直観型頭脳と論理型頭脳のどちらが強いであろうか。私は、直観型の方が強いと思う。その理由は、囲碁の勝負は「序盤から中盤にかけての布石」が「中盤から終盤にかけての布石」よりも大事だと思うからである。
 将棋は、序盤から終盤まで、一貫して論理型のようである。駒組みも論理で説明できそうである。囲碁と違って、将棋のプロの高段者が瞬時に読める手数は10手先程度までのようである。もし将棋が直観型発想で行われるのであれば、プロの高段者はもっと先の手数が読めるはずである。将棋では、直観型発想は読みの裏づけがあってはじめて役立つ。読みの裏づけは論理の役割である。
 一般に、女性は直観型で論理が苦手であるといわれている。近頃辞任に追い込まれたハーバート大学学長は『女性は生まれつき科学や数学に向かない』と発言している。(この発言は、女性は論理型頭脳でないといっているものと思う。科学や数学の世界でも、直観型頭脳の人が活躍していることについては前回のブログを参照してください。) この点は、将棋と囲碁の女流プロを考えると納得できるところもある。将棋の女流プロは「女流○○段」であって、男性とは対等の段位ではない。一方、囲碁の女流プロは単に「○○段」であって男性とは対等の段位であるし、プロになるための試験も男性との区別はない。つまり将棋と囲碁を比べた場合、女性では囲碁の方がはるかに強い。
 将棋と囲碁のソフトの比較から、コンピュータは直観型処理が苦手で、論理型処理が得意であるということが分かる。数学ソフトからも、この点は確認できる。例えばマスマティカMathematicaでは、グラフなどは上手に描けても、幾何学の問題を解くことは下手のようである。もちろんマスマティカも論理型処理は上手である。

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2006年2月18日 (土)

直観型頭脳と論理型頭脳

 前回の頭脳の続きです。主として数学や私の経験を踏まえて、直観型頭脳と論理型頭脳について述べたみたい。
 私は、小学校2年後期から中学校3年まで、算数・数学の予習をしていた。小学生の頃のことはほとんど記憶にないので、中学生の頃のことを述べておく。だいたい予習は、今後の授業の2週間分を目処に学習していた。この予習では、教科書を1回読むだけでほとんどすべてを理解でき、練習問題もほとんどすべて解けた。どこの部分でも、教科書を2回以上読んだことはほとんどない。教科書中のすべての問題を対象として、予習で解けなかった問題は2つから3つ程度であった。このような状況下で、私は「数学は本を読めばすべてが理解でき、練習問題もすべて解ける」という自信を持つようになった。
 ところが、高校の数学である経験をした。当時の数学は、数学Ⅰ、数学Ⅱ、幾何学の3つに分けられていた。このうち、数学Ⅰと数学Ⅱはやはり教科書を読むだけでなんなくすべてを理解できた。練習問題も簡単に解けた。この面では、中学校の延長であった。
 しかし、幾何学はそうはいかなかった。幾何学は、教科書の内容はなんなく理解できるのであるが、練習問題では容易に解けなかったものが多かった。このため、幾何学の教科書は何回も読んだ。それでも、解けない問題がかなり多かった。解が記載されている問題では、解をみれば「なーんだ」程度ですぐに理解できた。簡単に言えば、「ここに1本の補助線を引く」という記載を読んだ瞬間にその解は分かった。ただし、どこに補助線を引くかは、練習問題をみた段階では私には見当が付かなかった。
 上記のような経験から、高校生の頃の私は「幾何学は数学ではないのではないか」という疑問を持つようになった。私の中では、幾何学は明らかに数学Ⅰや数学Ⅱとは大きく異なる分野であった。こんな疑問は、成人した後に読んだポアンカレ著・吉田訳『科学の価値』岩波書店1977年で氷解した。
 ボアンカレによると、数学者は2つの相反するグループに分けられるという。一方は論理型で解析学者と呼ばれ、他方は直観型で幾何学者と呼ばれることが多いという。そして、論理型や直観型は生得の資質であり、後天的に獲得する資質ではないという。『人は幾何学者として生まれ、あるいは解析学者として生まれつくのである。』さらに、一般関数論を築き上げた2人の数学者を次のように対比している。
  ◎ ヴァイエルシュトラース(論理型)はすべてを級数の考察とその解析的変換とに帰
   着させてしまう。彼の書いたどの本にも、図形が一切見当たらない。
  ◎ リーマン(直観型)はすぐさま幾何学に頼ろうとする。彼の着想はどれをとっても映
   像・・・なのである。
 このポアンカレの図書を読んで、私は論理型であったと分かった。そして、直観型の映像的着想ができなかったがゆえに幾何学に苦労したことも分かった。現在の私は理論経済学の研究をしているが、頭脳内に浮かぶのは常に記号である。記号の演算は、無意識でも、あるいは夢の中でも行っていることがある。研究時に、図形や映像が頭の中に浮かぶことはない。ただし、子供の頃にそろばんを習い暗算には習熟しているので、数値の計算時にはそろばん球が頭に浮かぶ。(以下は余談。直観型の子供と論理型の子供とでは、どちらがそろばん上手であろうか。)
 直観型の頭脳内の働きをもう少し述べておく。高名な数学者J. アダマール(直観型)はある数学の証明における自身の心象を具体的に述べている。例えば証明のある段階で「2から11までのすべての素数を考える」時に、彼自身の頭の中では『私にはあいまいな塊が見える』と述べている。さらに、彼は『私が実際に思考しているときには、頭の中には言語はまったく存在しないと私は主張できる』と述べている。彼の場合、言語と代数の記号は同様の働きをしている。(以上、J. アダマール著・伏見他訳『数学における発明の心理』みすず書房1990年による。)
 高名な物理学者でノーベル賞受賞者でもあるR. P.ファインマンは、どこかで、『物理学の論文を読んでいると、機械や装置のようなものが頭の中に浮かんでくる』というようなことを述べていた。彼の場合は、数式などが機械や装置の一部になるようである(物理学を学んだことがある私は、このようなことは経験したことがない)。彼は直観型といえよう。
 私のように論理型の人は「文字や記号を図形・映像などに転換する頭脳内操作」が不得手なのではないであろうか。それでも、私は若干ではあるが図形・映像に転換することができる。具体例をあげておく。
 私は詩歌が好きである。例えば島崎藤村の「千曲川旅情の歌」の場合。
    小諸なる古城のほとり、雲白く遊子悲しむ、緑なす・・・
私には、この詩の全体の光景は頭には浮かばない。浮かぶのは部分部分の光景であり、それらが断片的に存在しているだけであり、連結・連接していない。もちろん、音も聞こえてこない。
 最近になって「自分でビデオカメラを操作している場合を想像する」ように意識することによって全体を映像的に捉えられるようになった。まだ短歌や俳句などの短い表現に限られるが。例えば佐々木信綱の
    ゆく秋の大和の国の薬師寺の、塔の上なる一ひらの雲
の場合。現在の私は、次のような段階的な映像を頭の中に描くことができるようになった。
    日本列島のゆく秋⇒大和の国のゆく秋⇒薬師寺のゆく秋・・・
しかし、これらの映像が走馬灯のように一続きのものにはならない。
 俳句では、意識することによって一つの映像として頭の中に描くことはできる。芭蕉の
    象潟や雨に西施がねぶの花
の場合がそうである。まだ意識しないと映像化はできない。映像化ができるようになって、この句の意味がより深く理解できるようになった。
 私は論理型であるがゆえに、直観型の人の頭の中がどのように働くのかに大いに興味を持っている。そこには、私の知らない世界があるのではないだろうか。また私のように意識することによって、論理型の人も直観型に近づけるのではないだろうか。

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2006年2月11日 (土)

そろばんと頭脳

 そろばんを操作することによって得られる頭脳の働きについて述べてみたい。以下、そろばんをはじく時の頭脳の働きを「そろばん脳」と呼ぶ。
 私は小学3年生から6年生までそろばんを学習し、かなりの上級まで達した。その経験から、上記のことを述べる。不思議なことに、そろばん脳はこれまでほとんど論じられてこなかった。しかし、そろばんと頭脳の一般的な関係はかなり多く論じられている。(例えば「播州そろばん」ウエブサイトでは、次のように述べられている。「そろばん演算時の指先の反復運動は左脳を鍛え、暗算は右脳を鍛える。」)
 中級程度までは、そろばんは計算道具に留まっている。しかし、かなりの上級者になると、一転してそろばんは外部記憶装置に転換する(すべての上級者が以下のようになるかは不明である)。簡単な例で、このことを述べておく。
 読み上げ算、つまり誰かが足し算の数値を順次読み上げ、それを「そろばん手(以下、そろばんをはじく者をさす)」がそろばんで計算する例を取り上げる。誰かが『123円なり、356円なり』と読み上げたとしよう。
 そろばんが計算道具に留まっている人の場合は、そろばんの上で、123円の上に356円を加えていく。その結果、479円と分かる。次に『689円なり』と聞いた場合も、そろばんの上の479円に689円を加えることになる。
 一方上級者は、まず123円とそろばんの上に置く。そして、356円という声を聞くとほとんど同時に、そろばん上の123円と356円を頭の中で計算して479円という結果を得、それをそろばんの上に置く。つまり、計算は常に暗算で行い、その結果をそろばん上に置くことになる。次に『689円なり』と聞いた場合も、そろばん上の479円と689円を暗算で計算し、その結果である1168円をそろばんの上に置く。
 このように上級者の読み上げ算は、常にそろばん上の数値と新たに聞いた数値を暗算で計算し、その結果をそろばん上に置くという操作を繰り返すのである。このためもあり、暗算で計算するということがそろばん脳の1番目の特徴となる。そして、そろばんという外部記憶装置と頭脳との連動がそろばん脳の2番目の特徴となる。後者の連動は、コンピュータ(CPUと記憶装置)の中でも行われている。
 加算や加減算では、そろばん手は上の桁から計算する。この計算方法は、筆算やコンピュータのそれとは異なっている。なお見取り暗算(足し算する数値が紙などに上から順に書かれている場合の暗算)では、部分計算(例えば3桁ごとに計算する)する場合があるが、その時は下の部分の暗算から行う。もちろん部分計算も上の桁から行う。
 もっと難しい読み上げ算の場合も、上級のそろばん手の演算方法は上記と同じである。しかし上記に加えて、そろばん手は頭脳を2つの部分に分けて使うようになる。つまり頭脳の用い方が変わってくるのである。(中級以下のそろばん手がこのような頭脳の用い方をするかどうかは不明である。)
 これも読み上げ算の例をあげて説明する。読み手が『123億5468万3468円なり、78万4888円なり、2568億3489万4566円なり、・・・』と読み上げたとする。まず、最初の123億・・・をそろばんの上に置く。前述のように、そろばんは外部記憶装置である。次の数値は、「78」と聞いた段階ではそれが「78億円」なのか、「78万円」なのか、「78円」なのかの単位が不明なので、計算できない。「78万」と聞いた段階で計算することになる。その78万・・・とそろばん上の値を暗算で計算している時に、3番目の数値2568億・・・が聞こえてくる。このように、上級者の読み上げ算では常に次のように頭脳を使うようになる。
  ① そろばん上の数値と2番目に聞いた数値を頭脳の一部で計算し、その結果をそろ
   ばん上に置きながら、聞こえてくる3番目の数値を頭脳の一部に記憶しておく。
  ② そろばん上の数値と3番目に聞いた数値を頭脳の一部で計算し、その結果をそろ
   ばん上に置きながら、聞こえてくる4番目の数値を頭脳の一部に記憶しておく。
  ・・・など。
 つまり一部の頭脳は計算を担当し、一部の頭脳は記憶を担当することになる。記憶した数値を計算するために、頭脳内でその数値をやり取りしているものと思う。このように頭脳を2つに分けて用いることがそろばん脳の3番目の特徴である。この過程は、やはりコンピュータに近い。コンピュータは入力した数値をいったんどこかに格納し、それをCPU内で計算する。
 上記のような桁数では、ほとんどの上級者は上位の桁から部分毎の暗算となる。ごく一部の上級者以外は、10桁以上の暗算をできないからである。このため、上記例の頭脳内の暗算は少しだけ煩瑣になる。
 なお上記のような大きな桁数の読み上げ算を電卓で計算する場合は、少ない桁数の場合とほとんど同じ操作でよい。そのため、電卓計算時の頭脳はそろばん脳とは大きくかけ離れている。
 頭脳を2つの部分に分けて使うという特性は、日常生活の訓練からでも得られるかもしれない。私はNHKテレビニュースを視聴する時には、通常は新聞を読みながらNHKの音声を聞いている。時々、テレビ画面に目を移すが、NHKの音声情報は100%捕捉できている。私の場合は上記のそろばん脳である。そろばん脳でない人も、上記のようなことはできると思います。それでも、そろばん脳と通常の頭脳を比較した時の音声捕捉率は前者のほうが高いと思います。
 そろばんの上級者になると、伝票の加算もある。伝票とは、文庫本を一回り小さくした紙片に5個くらいの数値が縦に併記されているものである。この伝票が複数枚綴じられている。そこから20枚くらいの伝票を用いて順次計算することになる。例えば、上から3番目に記載されている伝票の数値を20枚加算する。そのため、上級者になると各頁に記載されている6桁から7桁くらいの数値を一瞬にして読み取り、前記のような暗算を用いて計算していくことになる。一瞬にして、特定の場所に記載してある6桁から7桁程度の数値を読み取ることができるということがそろばん脳の4番目の特徴である。
 日常の生活や仕事をしていると、上記のそろばん脳の特徴のうち1番目の暗算はすぐ気が付く。また4番目の特徴である6桁から7桁程度の数値を一瞬にして読み取るということも、データの転記時やコンピュータへの入力時に気が付く。前者は他者でも気が付くが、後者は他者では気が付きにくい。
 3番目の特徴である頭脳を2分割で用いているということは本人でも、自覚しない限り、気が付きにくい。2番目の特徴である外部記憶装置と頭脳との連動も、本人がそうかと気が付くものである。
 上記で述べたそろばん脳の特徴のうち、1番目、3番目、それに4番目は日常何かと有用であるということが私には自覚できる。2番目の特徴はどのような有用性があるかは私にも分かりません。

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2005年7月24日 (日)

フォン・ノイマンと原爆: 広島、長崎、そして新潟

 広島と長崎の原爆の日がまもなくやってくる。8月6日に広島にリトルボーイ(ウラン爆弾)が、同9日に長崎にファットマン(プルトニウム爆弾)が投下されている。この日が近づくにつれて、被害にあわれた人々のことを思い出すとともに、原爆開発・投下に深くかかわったフォン・ノイマンのことを思い出す。それと同時に、科学者の興味と良心の関係はどうあるべきかという点にも思いが及ぶ。
 フォン・ノイマンは数学、物理学、経済学やコンピュータの設計など多くの面で多大の業績を上げている。はからずも、私のこのすべての面で勉強を続けており、それぞれの面で彼の業績を学んできた。
 フォン・ノイマンは原爆開発・投下では、主として爆発高度の計算を担当している。どの高度で爆発させたら最も多くの被害を与えることができるかの計算である。つまり、彼はどれだけ多くの人を殺すことができるかの計算を担当したのである。ベトナム戦争当時、アメリカの学会や戦争関連委員会でキルレイショ(殺人比率、費用○○ドル当たりで何人のベトナム人を殺すことができるかという比率)という言葉が平然として語られていたことを思い出す。フォン・ノイマンは、このキルレイショを平然と語る人たちと同類であったのである。おそらく、彼は興味の赴くままに活動し、その結果として前記のように多面的な業績をあげることができたのであろう。彼の場合、良心は彼の活動に対して制約条件にはならなかったと思われる。彼は人間の心を持たない科学者であったというべきであろう。
 かつて「科学には国境がない。ただし、科学者には国境がある」という言葉が頻繁に用いられたことがある。これに倣えば、「科学の範囲には制約がない。ただし科学者には良心の制約がある。」といえるかもしれない。私は、経済学者は良心の制約に従って仕事をするべきであると常々思っている。私がK. マルクスを愛するのは、ひとえにこの面からである。私は、すべての科学者も良心の制約に従って仕事をしてほしいと望む。
 またフォン・ノイマンは原爆を日本のどの都市に投下するかを決める「標的委員会」にも出席している。米国空軍の当初の原爆投下候補地は京都、広島、横浜、皇居、小倉軍需工場、新潟の6ヶ所であつた。かれは皇居への投下には反対したという。さらに、新潟がリストから削除された。新潟の削除は誰の指示によるかは不明であるが、彼の現存するメモには新潟に対して「情報不足」と付記してあるという。私は、どこかでNiigataと記されている彼のメモ(もちろんコピーである)をみたことがある。そして最終的には、広島、小倉軍需工場、そして新潟や横浜などの港湾都市の代替地として長崎の3つが投下候補地とされた。
 新潟市は、私のふるさとである。新潟が原爆投下候補地から削除されたことについては、程度は不明であるが、フォン・ノイマンがかかわっていることは事実である。それゆえに、私の存在、あるいは親や兄弟の存在(何人かは既になくなっている)は彼に負うところがあるかもしれないのである。それでも、私は科学者の良心という面で彼を指弾したいと思う。

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